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Star Wars: The Old Republic

2011年12月28日 (水)

【SWTOR】中ニ病強し。

 ホリデイ・シーズンにSWTORをサブスクライブしたのは1百万人を超えたそうである。
 EAの公式発表。MMO史上、もっとも急速に伸びているのだそうだ。

 http://www.gamespot.com/news/6348119.html

 もうちょっと詳しく教えて欲しい!と思いつつ、この数字には笑った。
 キャラメイクされたシス・ウォーリアーが85万以上、ジェダイ・ナイトは81万。(もちろん、ひとつのアカウントで8までの複数キャラクターがメイク可能だし、サーバーを跨げばさらに多くメイク可能。それに何の意味があるかはともかく)

 感覚的にもシス・サイドのインスタンスが混んでる気がするもんね。
 世界中(US、ヨーロッパ)でみて、中ニ病が優勢なんだな。

 あとは、これがどこまで伸びるのかですが、アナリストによって(予想達成時期もばらつきますが)、固めの一年間で1.5百万人から、半年以内に軽く3百万人以上まで見込みはまちまちである。それでも(開発費の回収はともかく)これでとりあえず、これからのランニング・コストは確保した数字になっているようです。

2011年12月26日 (月)

【SWTOR】「死は存在しない。フォースが存在する」(3)

 このブログが新環境に移行する最後を飾るに相応しい大ネタかと思っていましたが、だいぶグダグダ感が漂ってまいりました。

 んー、だって難しいんですもの。
 でもやっぱ今の時代は社会学とか脚光を浴びて欲しいなあ。全然ダメなんだそうだ。サンデル博士じゃないが、最近の学生は「正義とは」なんかに興味が完全に傾いてるんだってさ。そちらは(そういう分類に意味があるとすれば)政治哲学と呼ばれており、大澤氏(彼ももちろん博士ではあるが)などの領域は社会哲学というそうなんで、被ってるはずなんだけど、後者は人気がない。社会学には何か変なレッテルがついてしまってるんだろうか(ぼんやりわかって書いてますけど)。

 「正義とは」ももちろんとても大事なんだけど、サンデル博士ブームでそっちに行くってのはうそ臭いなあ。実はこれがブームになった理由には、つい最近まで誰がなんと言おうと戦時中であったUSと、太平天下だった日本では明らかに異なる部分があったはずだと思う。日本で火がついたのはこれもまた「コンプライアンス」ブームの一環なんだと思うけどね。「エコ」に飽きてきたらしいし。
 むしろ、これをことさら日本の大震災にこじつけるのはどうかと思う(もちろん「正義」と核燃料問題の間には密接な関係があるのは間違いないのですが、大震災と核燃料問題は一緒ではない。むしろ皆が「エコ」に飽きてきているのがすごいと思うが、これは成熟なのか諦観なのかどうなのか)。
 それもかかえているネタのひとつなんですが、大ネタになるから年明けかなあ。
(追加:大震災の復興と正義は実は関係があると気がついたが、長くなるんでまた別の機会に。資金を平等に配分せよとかそういうゴミみたいな話じゃなく、実は互恵・互助の話なんだ)

 大澤氏も書いていましたが、彼自身も仏語、英語はそんなに喋れるほうではなかったが、やむにやまれず訓練してできるようになられたんだそうだ。
 面白いのは、社会科学系の学問領域ではあまり外国語を用いずに日本語で論文を書くケースが多いが、経済学や心理学では、自然科学系と同様に外国語(主に英語)で論文を書くのが普通である、と書かれていたこと。

 私見ですが、経済学や心理学はやっぱり(特に日本で、実は世界中で)差別されていた領域だからでしょうね。つまりそれらは「学問」じゃないだろうというレッテルを貼られていた。(申し訳ないが考古学は今も昔も学問ではないと言われ続けている)。
 ところが経済学や心理学は高等数学を駆使することで、いまやどちらも社会科学系の雄になっているとも聴きます。コンプレックスの裏返しでしょうかね。

 逆に言えば、それ以外の社会科学の分野はそこまで抜けにはされてこなかった、ということになるのかな。 

 知らん振りして逃げたいなあ・・・。でもまとめなければいけないようなんで、まとめます。
 一回目は次の部分まで書きました。

 日本人は日本語をもちいて、やむを得ずしょうがなくて導入した外来の概念を刻印して「無害化」して、両義的に(ネガティヴでもあり、ポジティヴでもある形で)受容した。

 実はしばらく前、FF「零式」の記事で、日本人てば「れい」(絶対零度、零点、零時)とか「ゼロ」(ゼロ戦、あと番号の数え方)とか読み方ばらばらで、統一性がないような話題をしてました。そのときも零(れい)もゼロもどっちも外来語だからどうでもいいんだろうなと書いてましたが、それもきっと正しかったんだな、とこの本を読んで改めてわかった。

 マーキングとは、日本語が漢字かな混じり文であるから可能な、外来語をハッキリとそれとわかる形で刻印すること。カタカナ外来語の話は自明であるから置いておいて、社会、存在、自由、自然、超越、それこそ上でいうような正義のような、奇妙な二字熟語の羅列であること。そしてほとんどが「音読み」である事実に注目。

 特に「社会」のようにsocietyの意味であるなら、「社」でも「会」でもどちらか一方でもよかったのに、なぜわざわざふたつ重ねたのか。「存在」も「存」でも「在」でもどっちでもいいじゃないか。「超」、「越」。「自」、「然」。「正」、「義」。
 もちろん全部が全部そうではありません。例えば「自由」は「自」に「由」るですからね。

 大澤氏は、輸入した日本人が"society"をやまと言葉の「よのなか」とも「みんな」とも、あるいは既に輸入されていた「世間」(せけん)でもなく、ましてや「社」(漢語でも共同体の意味ですからね)でも、「会」(人が集う意味ですしね)でもなく、「社会」にした理由を次のように説明します。

 それは、わかろうとしなかったからです。わかってはいけない。「何としてもほんとうには理解しない」態度だったから。

 カタカナ語に戻ると、私はコンプライアンスを変に訳すと意味が曲がる、趣旨を誤る、などと書きました。それが入り口の態度ですね。意味を示す丁度よい日本語も漢字もありません。だったらそのままでいいやん、という態度です。誤訳による過失を防ごうという意識的な態度ですね。

 でも大澤氏が述べているのは違います。完璧にわかったような理解、完全にわがものにし、内面化されてしまうような理解を無意識に回避しているのではないか。

 上の(私のような表面的な)態度は「誠実」そうにみえて、実は(後者のような無意識があるのであれば)とても「倒錯的」な態度である。日本人(日本語の話者)は、外来語をわかってはいけない。近似値として理解しなければならない。
 西洋由来の概念は「ほんとうには理解できない」、さらに進んで「何としてもほんとうには理解しない」という屈折を大澤氏は指摘します。

 またそれは、明治時代にそうした外来語の翻訳を手がけた福沢諭吉などに留まらず、仏教伝来の時代から日本人に通じる態度であると指摘します。日本に伝わった仏教の経典は実は原典が漢語に翻訳されたものですが、日本人はついにそれを日本語には翻訳しませんでした。「わかってしまう」ことに抵抗があった、と大澤氏は言います。

 私も気がついた例は、(上でいう日本の経済学がある時期バカにされたひとつの契機でもあった)マルクス経済学ですね。ほんとうに理解した人などごくわずかで、「なんだかさっぱりわからない」、「ちんぷんかんぷん」だからありがたい、ははーっと、おしいただくという発想が蔓延していたんだなあ、と思います。(「ちんぷんかんぷん」こそ、漢語の儒教思想がさっぱり意味不明であるという語源でしょう)

 順序が前後してしまいましたが、「は」という助詞の役割もまた、こうした日本人の感覚を示しているものだといいます。
 「は」は文(ピリオド、句点)も越え、節(カンマ、読点)も越える。

 くどくて長くなるので、ピリオドを越える例を引用します。超有名な文章で、都合のいいことに明治の文豪の作品。

 我輩は 猫である。

      名前はまだ無い。

      どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。

 「我輩は」の「は」は、三つの(句点で区切られた)文にかかっています。

 同じように「カンマ」を越える例もいくつもできます。
 「は」は、文を越える、文の境界を横断できる唯一の文法的要素です。これによって、対比であるとか、否定であるとか、今まで色々議論されてきた「は」の機能が通底していることがわかってきます、と大澤氏は述べています。

 表題の文章(文二つからなっています)を変更して「死は存在しない。フォースは存在する」としたらこれは「対比」を強調した場合、そして「死は存在しない」の「は」は強い「否定」を示す。
 私の訳文は、もちろん強い「否定」を利用することを考えていますが、対比については「弱すぎる」ので表題のように後者を「が」に変えました。なぜなら「死」と「フォース」は対比(並置)してはならないものだからです。

 なお、原文は、セミ(セマイ)・コロン、";"で区切られています。

There is no death; there is the Force.

 だから厳密には「ふたつの文」ではないのですが、実は、このセミ・コロンはとっても窮屈な英文法の世界の逃げ道なんですね。

 もし二つの文をカンマ","で区切ったら、その英文は不正です。接続詞とかなしでそういうことしたらダメです。二つの構文をそのままぶんなげては置けません。でもこの文章で接続詞を投入したらあまりに冗長です。
 もしこの二つの文をピリオド"."で区切ったらそれは正規の英文です。(もちろん後ろのthereはThereに直さないと減点です!(笑))
 でも同じ事象(この宇宙のありよう)を説明するふたつの文はそれによって完全に分断されて、余韻が著しく損なわれます。
 セミ・コロンてのは、そういう事態を回避する苦し紛れの方便であると理解しています。  
 そして、(傍証としてあげておくと)かのカード・ヴォネガットに言わせると、小説家たるもの、「ゼッタイ使っちゃダメ」だそうです。ところがBioWareのライターたちはこれでもかというくらい多用しています(笑)。どっちかってとインテリの人に多用する人が多いですね。

 さらに「は」は、話者までも越えてしまいます。

 SWTORは なかなかいいよね。
        ちっとも面白くないよ。
        八つもイントロのストーリーがあるんだぜ。
        全部陳腐でおざなりじゃん。 

 ふたりの間でSWTOR(という話題)がバレーボール(あるいはキャッチボール)のように、とびかっているのか?
 それとも、SWTORという「土俵」にのった二人が相撲を取っているのか。「コート」でも「グラウンド」でもいいけど。

 大澤氏は(他の学説を引用して)「場面」という説をとっているようです。私の比喩はイマイチだが上だと「土俵」、「コート」ですね。「場面」とは、対話者が生きているそのこと、とりまく全ての関係性とか、説明があまりに難しいのでそれで勘弁してくれ。 

 このように「は」は、日本語の中でずば抜けた重要性を持つといいます。
 日本語とは間身体的な現場(これが「場面」ですかね)に直接結びついた言語ではないか。つまり聴き手が目の前にいる前提で書かれている。よって、そうした共存する場面から、普遍性へと離陸しにくい構造をもっているのではないか、というのが大澤氏の考えです。

 マーキングされた外来語とは、一般に「普遍的な」概念を示す言葉でした。日本人(日本人の話者)がそれらへの理解を適当なところでやめる、いや、それらを完全には理解しないように必死になる、というお話と繋がっています。

 そして大日本帝国憲法が「は」を連発しているのも、じゃあ、結局その憲法に書いてあることは誰が知ってるんだよ、という話に繋がる。誰が話者なんだろう。誰が理解しているんだろう。

 最初に「は」を用いる場合、受け手が知らない話題は持ち出せません。物語の劈頭でいきなり「昔々、おじいさんとおばあさんはいました」とは日本人は言わない。「がいました」です。でも、次に「おじいさんが山へ芝刈りに、おばあさんが河へ洗濯に」というのは間違ってるとまでは言わないけどもう話に出ちゃってるわけだから、やっぱちょっと変です。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは河へ洗濯に」でしょうね、普通なら。最初が「新情報の「が」で、後が「旧情報」の「は」という説にも合致している。それから後のふたつの「は」は「対比」ですね。

 桃太郎ならおばあさんのほうがクエスト・イヴェントにぶちあたる(どんぶらこどんぶらこ)。冒頭部ちょっと違いますが竹取物語ならおじいさんのほうがコンパニオン(つうか実はヒロイン主人公)を獲得する(光る竹)。マルチ・オリジン・シナリオじゃないけど。ここはどちらも美麗なカットシーンが入るところでしょうね。
 まあ、どちらも「は」でいいんじゃないですかね。どちらかを「が」にしてしまうと、「ん、なに、なんか伏線?」と変なミステリー性が生まれちゃうし。「おじいさんが山へ行ったにもかかわらず、なんと、おばあさんは河へ!」みたいな。

 上の例で、SWTORをたとえ相手が知らなくても「SWTORは、なかなかいいよ」は言えるじゃないか、という意見ありそうですね。つか私が思いついた。全く関係ない人にいきなりヴィデオゲームの話題したら確かに変ですね。でも例えばこのブログで、冒頭に「やっぱFFXIII-2はいけるわ」と書いても何の問題もない。ほとんどの読者はなんの話題か知っているだろうから。だからもし二人で出会って、上の「SWTORは」という話を切り出せるなら、気心が知れた仲であるということでしょう。同じ土俵にいる。

(では「メロスは激怒した」。これはどうでしょう。この話、考えれば考えるほど面白い)

 「大日本帝国」ってのは、この憲法でいきなり出てきたわけだから、そういう世界が成立しません。少なくともわかっているのははじめて聴いた(読んだ)はずの民じゃないですね。お上かな。きっとお上がわかってるんだ。日本語のネイティヴ・スピーカーなら自然にそう考えますよね。
 でもお上だって知らないかもしれない。実際知らないんですよ。知らなかった。きっと西洋の誰か偉い人はわかってるんだよ。
 そうやって安心するというか、真の理解を超越的な存在(お上とか西洋の偉い人)に託して、自分では理解を拒絶しつつ受容する態度。そういう超越的な存在を外部に措定することを通じて、今ここに存在するわれわれの統一性が保障されるという、実に厄介で、手の込んだ仕組みであると、大澤氏は指摘します。  

 最後にラカンの「日本人は、自分の精神分析の著作を読まんでよい」という言説の謎解き。
 漢字かな混じり文をもちいている日本人(日本語の話者)にはどうして精神分析が必要ないのでしょうか。

 大澤氏はボーデンハイマーの「問いの猥褻性」なる言説を持ち出します。「問いは一般に猥褻である」。
 あー、書き間違いじゃないよ。猥褻(わいせつ)だよ。
 ちょ、待て待て、こっちだって辛いのだ。せっかくここまで読んだではないか。なぜここで立ち去ろうとする? 心配ない、あともうちょっとです。

 なぜ問いは一般に猥褻なのか。なぜなら、最終的に問われた方が答えられない事態を想定して問いを発するから。問われたほうの無能力、発話不能性を前提にしているから。むしろそれを標的としているから。
 フロイトのいう「我々の存在の核」なるもの、自分自身のごく内密な部分を攻撃の対象としているから。裸が恥ずかしいように、それは決して他者に見せられないから。そして衣服は着替えられるが、裸からは決して逃げられないから。
 それこそ「私自身」であるのにそれを引き受け、これが「私だ」と認めることが容易にできないから。問いはその羞恥の核を目指すから。暴力的だから、猥褻なのだという。

 そしてその裏返しとして、語りとは、原理的にすべて(誰かからの問いに対する)応答・回答なのではないか、というジャック・デリダの説が提示されます。

 なぜ問われてもいないのに話し始める? なぜ誰からも頼まれてもいないのに(いやむしろやめとけと思われているのに)ブログを書く? メールを送る? ツイッターを(私はしないが)する?

 それは問われている気がしているから。詳しくは省略しますが(この本を買うか立ち読みしてください)、日本語でも英語でも、構造上はすべて誰かに答える形式を隠し持っているから。独り言であれ、そうである。語りとはすべて不定の他者に対する応答・回答なのかもしれない。誰ともわからない誰かのなんとも特定できない問いかけにせき立てられるようにして答えようとしている、というのがデリダの説です。そして今この瞬間の私がやっていることがそれだ。

 精神分析の治療対象は、私が誰か、何者であるのかという問いに答えられなくなっている状態にあるとする。その応答不能性が身体的に(心身の症状とか言動の固有の偏りとして)表出している。つまり上にいう羞恥の核がむき出しに曝された状態であるとすれば、日本人がなぜラカンの本を読む必要がないのかわかる、といいます。
 そうでない状態を考えればいい。「問われても答えなくていい」状態です。

 もう、おわかりですね。

 答えなくていいんです。知らなくていいんです。ほんとうに知ってる誰かは他にいるから。んーそんなこと聴かれても実を言うと、よくわかんないんだよね。でも心配ないさ。大陸とか西洋とか、きっとどこか他には肝心なことは全部知っている、承知している、わかってる人がいてくれるはずだから。

 気楽なもんです。そして、もしあなたが日本人(少なくとも日本語の話者でしょうね、こんなわけわからん日本語をここまで読んでいるんだから)なら、きっと否定はできないでしょう。いやあ、否定してもいいし、無視してもいいよ。だって日本人の特権として、問いに答える必要はないのだから。 

 代償はなんでしょうか。そんな特権的地位、安楽を享受するだけで済むわけないよね。そう身構えるのが自然な態度でしょうね。

 考えればあっさりわかりますね。普遍的なものに直面できなくなるのですね。言語を語る主体の普遍的な真実に直面できなくなる。
 日本人は永久に普遍的真実に立ち向かえないのか。

 大澤氏は、そんなことはない、解決策は拍子抜けするほど簡単だといいます。
 その、すべてを知っていると想定される超越的な存在に、「あなたは本当にわかっているのか?」と問えという。子供のような無邪気で素朴な問いを発しろ、という。
 おわかりのように、超越者は、別に大陸とか西洋にいるわけではありません。私の、あなたの中にいる。その存在に素朴な疑問を問いかけろと。

 できれば自問自答で終わるのではなく、他者を前におくのが望ましいのはいうまでもないわけですけどね。なぜなら内なる超越者との対話は、それは実は挑戦であるから、容易に挫けて、妥協してしまうことが想定されるから。

 いやね、私だって最後のほうは騙されたような気分になりますが、まあ、面白かったからいいか(まさにその態度が)。わからなかったらまた大澤氏の本を読めばいし、なんだったら日本人なんだから質問しちゃおう(それもだ)。

 でも、それなりになぞってきてみて、自分としては、かなーりなお得感が漂っています。なんか色々なものを貰ったなあ。

 実は、ここまでふれてきた部分は、この本の第一章でしかないんですが、もう元は取れたな。

 頼まれてもいないのにブログを書くことも、見えない誰かに必死にせきたてられるようにしているから、というのはもうナットクしまくりですね。

 そして、日本人の稀に見る圧倒的なブログ(に限らないが、私は他のツールの世界統計を知らない)好きも説明できるんだろうな。日本語ブログの世界一位の地位はまったく揺らいでいないようですから。

 そうそう、facebookなんてまさにそれだよなあ。完璧休眠状態ですが、ブラウザ・ゲームにフレンド登録しろとうるさいからやむを得ず見に行くと、それって自分の裸まで曝してないか、と辟易するようなページもあるんだよね。実はそういう人だって、それ以外に羞恥の核はあるんだろうけどね。

**********

 読み直すと、内なる超越者に子供のように素朴な問いを発せよというところを書いていたとき、以前に触れた筒井康隆先生の「驚愕の曠野」の印象的な一シーンを想起していたことを思い出した。

 始まりも終わりもなく、生きる目的すらも不明な荒野に人々が蠢く世界で、作中のある男は、あるときこの世界で十四尊仏の名を馳せている高僧のひとりと出会う。
 ところが男は、この賢者とみなされている男が、実はなにひとつ知恵を有していない(この世界について何もわかっていない)ことに気がつき、このままひきずられては自分の身も危ういと考えて殴り殺してしまうのだ。
 個人的にはこの小説で最も印象的なシーン。

 筒井先生も社会学・心理学の分野を学ばれていたそうだ。通じているのかなあ・・。

**********

 参考までに「走れメロス」の冒頭部分。もう、ネタがバンバン落ちてます。

 メロスは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐 ( じゃちぼうぎゃく ) の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

【SWTOR】「死は存在しない。フォースが存在する」(2)

 Skyrimのコンカレントな(開発と同時進行的な)ローカライゼーションなどをみると、ツー・バイト・コード非関税障壁説は、もうあまり話題にならなくなったかもしれません。
 克服された、のか、そもそも存在すらしていなかったデマだったのか。
 BioWareがその世界を実現できているかどうかは次のMass Effect 3でわかる。
(ちなみにFFXIIIは、同時発売を狙わず、英語版ローカライゼーションには半年程度の時間を確保していたそうだ。日本語版の納期が厳しかった説もあるので一般化はできない)

 でも森有礼の時代から、日本語のような単語が未分化な劣悪な言語は「劣等国の証」であるから、国語を英語化せよという議論は実はあった。当時のアメリカ人の学者に「あほぬかせ」と言われて終わった。
 今でも漢語(大陸語)が最も遅れた言語説を唱える学者だっている。
 日本のバブル期には、何を言っても言った者勝ちである時代だったのか、冒頭のツー・バイト・コード非関税障壁説を声高に唱える学者もいた。言ってないとは言わせない。

 ちなみに私はローマ字チャットがほんとに苦手だ。キーボードではローマ字で打って変換しているのに、読むのがとっても苦手。漢字かな交じり文依存は相当重症のようだ。 

 まあ、ここで言語進化論?を言ってもはじまらない。ブリューゲルの絵ではまだインタクト(健在)であったバベルの塔は、その後崩壊したのだ。

 いやあ、intact(普通は、損傷を受けていない、いまだ無傷であるという意味)とか超便利な単語なんだけど、日本語にないのよね。robust(ちょっとやそっとの環境変化や外的要因じゃ動じない、壊れないって意味)ってのも良く使いたくなるが、ITの世界だと「堅牢」? センス最悪だよね(笑)。
 余談ですが(すでに余談が始まってますが)、IT分野で最もダメダメなのは「可用性」。言語センスがゼロ、美しくないだけではなく、まず元の英語が想起不可能になる。availabilityのこと。普通に「入手可能性」などでどこがいけないんだ。どうしても三文字にしたかったらしい。最悪。

 コンプライアンス(compliance)を「法令遵守」に訳さなかった(訳が定着しなかった)のは賢明であった。だってそういう意味じゃないから。そういうのは誤訳だから。「遵法思想(発想)」ならまだわかるが、それだけじゃない。遵守すべきは法だけじゃないんです。
 なぜなら「法を守る」なんつうような、そんなチンケな問題(だけ)がことさらやかましく言われてるんだとしたら、一体どんな国なんだよ?

 そのくせ、デュー・デリジェンス(due diligence)なんて、英語をやたらそのまま使いたがんだよな。「デューデリ」とかぬかしやがる。意味わかってんのか。デリなんとかと間違ってないか(ちょーっ、ちょちょ)。それこそ「相当な配慮を欠かさずに、まっとうな手続き主義でやれよ、こら」でいいのだ。法律の世界でも経済の世界でも扱う対象は違えども「嘘言いっこなし、隠し立てなし、騙しっこなし、まっとうにカタギにやれ」という意味だけだもの。
 「まっとうにやれ」ではダメなんだろうか? もし「まっとう」とか「カタギ」がわからんなら、「デューデリ」だってわからんのではないか。

 そういう話になるととまらなくなる。「スマホ」って(あたしゃ持っていないけど)定着しましたよね。ではキャリアーどもが言っている「フィーチャー・フォン」ってなんでしょう? スマホより前の世代のごく普通の「ケータイ」ですよね。アメリカ人が思いついたのかな。それ以外に意味はない。
 そしてその呼び方は(少なくとも日本では)今後決して定着しないことが予見されますよね。なんで「ケータイ」ではダメなの? あるいは「レトホ」(レトロ・フォン)でいいじゃん。

 「またあの名前ど忘れした。ごめん、あたしゃレトホなんで、あなたのスマホでググって」

 この会話ナウくねえか?(お前いっぺん死ね。死んで来い)

 「E電」とかいうのも死にましたね。これも糸井か? くだらないのは糸井だろう。
 そういうのって、お上(キャリアーだってお上の手先みてえなもんだ)が勝手に決めるから流行らないのかと思っていたのですが、大澤氏の論説を読んでいて、「いや、これひょっとしたら、日本人の集団意識として受け入れてない、受け入れようもないからじゃないんだろうか」と思い始めました。

 「RPG」なんておばちゃんでも知ってるよね。元のロール・プレイング・ゲーム(role playing game)だって、もう「ロープレ」で通じる。
 アフガン・ゲリラなどが使う対戦車ロケット(rocket-propelled grenade)と間違う日本人はあまりいない。

 「パソコン」は完璧に定着して久しいし、「ドスブイ」だって一時期はそれなりに定着していた(もの自体がなくなった)。IBM-PC/AT互換機とかほざくと、スノッブでいやらしかったもんな。アメリカ人は「IBMクローン」と呼んでいたらしいが。今はもっぱらウィンドウズ・マシン。アメリカ人のいうPCはそれ。「パソコン」にマッキントッシュまで入っちゃう日本語とは違いますね。

 他にも例が沢山ありそう。なんだろう、カタカナでできれば四文字(音節)以内でおさまると、「帰化」(naturalized)まではないけど「同化」(assimilated)は行われるのだろうか。 
 (カタカナである限り、大澤氏の引用する「外来種に対するマーキング(刻印)」からは逃れられない)
 そうなると外来種でも、チワワなんて名前だと、なんか可愛らしくて「愛い奴じゃ、ちこうよれ」にはなるのかな。
 ドーベルマンに「ちこうよれ」はあまりしないな。シェパードもそうか。んーでも短いからってハスキーはかなりでかいぞ。名前はあんまし関係ないな。

 読む時はともかく、発語する時は七五調も関係ありそう。やはりウィンドウズは長すぎる。七五調にギリで収まるけど字余り感が漂うし。アイマック、アイポッド、アイパッド。いいっすね。アイフォーン。だめっすね、だからみんな呼ぶときは「アイフォン」(アにアクセント)と勝手に変えちゃってるのかも。

 あ、「ラノベ」もそういう戦略なのか(笑)。サイファイ・エスエフが「SF」で失敗したからなー。

 (まあ、一日中テレフォン・ショッピングを観続けているおばちゃんどもだと、あたしなんか理解の及ばないレベルの外来語知ってますからね・・・。あたしゃ「アセロラ」、「コラーゲン」あたりで終わってるけど、今の健康食品や、ダイエット、「サプリメント」(まさかこのアメリカ語が日本で定着するとは思わなかった)はわけわからない)
 
 E電が「不気味」で「忌まわしい」のはこれは強制政略結婚だからなのかな。しかもアルファベットと漢字という、どちらも外来種を重ねちゃってるところが猥褻なのかな。、AT互換機がダメなのは、ちょっと意味が違うけどそんな理由なのかしら。

 わたしは、一部の偉そうな知識人?のバカが提唱している「NHKや新聞等のメディア、あろうことか官僚作文にまでカタカナ語が氾濫しているのがけしからん。何が何でも日本語に書き直せ」という言説を、完璧にバカにしています。その私の正しさも大澤氏の論説を読むと強化されたような気がする。

 今まではそんなのケース・バイ・ケースだろ、と思ってたが、今はむしろマーキング(刻印)は必要なのだと思いはじめた。

 私は「可用性」みたいな、醜く不気味な言葉を見たくないのだ。

 だが日本の官僚はそういうところだけは優秀だ。知識人?に言われるままに「日本語への言い換え」のリストを作ったが、できばえはそういう言いようのない「不気味さ」が漂うようになっている。つまりまじめにやってない。というか意図的に「バカの言うこと聴いたらこんななっちゃいましたが、国民の皆様どうですか?)」というところに誘導するようにつくっている。

http://www.ninjal.ac.jp/gairaigo/Teian1_4/iikaego.html

(残念ながらアヴェイラビリティについては逃げやがったらしくて、言い換え語がない)

 コンプライアンス。法令遵守。上で書いたようにこれは誤訳だよ。というか、このリストはこういうふうにごく一部の意味だけしか訳していないで逃げている事例がとっても多い。
 もっというと、誰からもつっこまれそうにない、当たり障りのない、つまり「言い換える必要性のない」外来語を選んでいるのだ。例えば、

 インフラストラクチャー。(日本語ではインフラ)。社会基盤。えー、たったそれだけの意味か?

 アカウンタビリティ。説明責任。
 じゃあ、電力会社もオリンパスもなんとか製紙も説明の責任はちゃんと果たしてるよね? 「だって大丈夫だと思ったんだもん」、「だってばれないと思ったんだもん」、「だってパパが怖かったんだもん」。それでいいのかっちゅう話。

 インセンティヴ。意欲刺激。・・・。語感も悪ければ、リズムもグダグダで、ちっとも意欲が刺激されねえなあ・・・。インセンティヴ!っていうほうが気合が入るなあ。

 タスク・フォース。特別作業班。・・・。んー、イメージは清掃局とか水道局でしょうか?
 だったら問題解決班とか事後処理班とかでいいんじゃないのか。日本語には「特命」という便利な言葉もあるぞ。「作業」ってのがことさら机上のルーチン・ワークめいてて、特別だけど(だから)どうでもいい、みたいな不気味な感じがしてとってもイヤ。

 だいたい役人からしたら「特別」なんてのは「余計な仕事まわしやがって」という発想だろうからな。「特別」ってのがつまり、「本来であれば自分がやる必要のない」、「定時に帰れたはずの自分が」、「作業」ってのはつまり、「上のどこかのバカが出世するためのアリバイ作りのため」、「どーでもいいような数字いじくりまわして、作文して仕上げること」だからだ。

 もとはどんな意味か知っててやってると信じていますが、これは軍隊、それも太平洋戦争から多く用いられたUS海軍用語で、臨時に編成され、特定単独の重要な任務にあたる艦隊編成(例えば空母を中心とした打撃群)のことだ。ビジネスの世界の比喩でいえば日本語のプロジェクト、アメリカ語のイニシャチヴにちかい。あるいは臨時編成の問題解決委員会のようなものである。
 よって、若く将来を嘱望されている社員が「君はTFのリーダーだ」と任命されたら「サー・イエッサー!」と意気に感じて働くわけです。すなわち沸々と「インセンティヴ」が生まれるように命名されたものだ。それを「作業」とは・・・。どうして「任務」ではいけなかったのだ。

 リテラシー。読み書き能力、活用能力。・・・。まあ活用能力はITリテラシーをいってんだろうな。じゃあ、サイファイ(ラノベ)リテラシーはサイファイ(ラノベ)読み書き能力? 活用能力? 

 ノーマライゼーション。等性化。

 これ、ご存知の方も多いだろう。差別問題に関係する用語なんだが、「障害のある人も,一般社会で等しく普通に生活できるようにすること」です。
 それでいいじゃねえか。それを「ノーマライゼーション」と言う、と規定すればいいだろう。
 ほらほら、こういうことするからマーキングがしっかりついちゃうんだよ。ギラギラしまくって、もうレッテルはられちゃってるでしょう。これなんか、むしろやっちゃゼッタイダメでしょう。

 こういう才能だけは認めよう。やはり日本の官僚、ぶち壊しにする才能には長じている。

 なにひとつ、普及していない。もちろん可哀想なことに(実はぜんぜん思ってないけど)、お役所の人たちはこれ使わされてるんだろう(少なくとも使わされていた時代はあったろう)。

 余談だけで記事一個書けたぜ。まとめは次回。

2011年12月25日 (日)

【SWTOR】「死は存在しない。フォースが存在する」

 また同時代性というか、セレンディピティならぬシンクロニアティというか。

 先に、Jedi Codeを引用しました。

There is no emotion; there is peace.
There is no ignorance; there is knowledge.
There is no passion; there is serenity.
There is no chaos; there is harmony.
There is no death; there is the Force.

 難しい単語はないですよね。serenityは静穏、平穏、平静でもいいか。

 では訳してもらえますか?

 やろうとするとめっちゃ難しいですよね。実はあのときもブログに引用して日本語訳すること自体やめようかと思うくらい悩んだのです。そして最後の一行だけ日本語にした。それがこの表題。
 もちろん高尚な裏技を使って重大な問題を回避しようとする方もいるだろう。漢語的にしちゃうのもひとつの手でしょうね。

 「感情にあらず、平穏のみ」・・・とか。んー、でも私がいうのもあれだけどちょっと超訳しすぎかな。

 これのどこが難しいのか? そうお感じならば、疑うべきポイントは英語じゃなくて国語。

「感情は存在しない。平安が存在する。
 無知は存在しない。知識が存在する。
 情熱は存在しない。静穏が存在する。
 混沌は存在しない。調和が存在する。
 死は存在しない。フォースが存在する」

 カタカナの字面がお気に召さないなら、(あまり良い訳語じゃないと思うけど)公式的に用いられているように、フォースは「理力」(りりょく)でもいい。ゴロが悪いとお思いなら「死」は二字熟語で置き換えましょう。「死滅」でも、「死没」でも、「絶命」でも。
 気をつけないといけないのは、「往生」とか「他界」とか座り心地がいいの使っちゃうと意味まで違っちゃうからね。それらこそ「理力」の発想なわけだから。しかし日本語は言霊文化だけあって、調べてみると、ストレートに「死」を表現する言葉のほうが婉曲的表現より少ないってどういうこっちゃ。

 そんなんじゃ直訳過ぎてだめだ、ってなら、

 「感情ではなく、平安がある」
 「死滅ではなく、理力がある」

 あるいは

 「感情はなく、平安がある」
 「死滅はなく、理力がある」

 こういうパターンでもいいですよ。お好みのどれでもいいよ。こっちの手の内には関係ないから。

 さて、ヒントもだいぶ出た。問題はなんでしょう?

 そうそう、「は」(読みは「わ」)と「が」ですね。

 どうぞ才能豊かな方は、それを用いることを回避するような美文調でも漢文調でも編み出していただきたい。だがそれをすると本質が曇る気がするのだ。

 死ぬほど悩んだ。往生した(笑)。いや最初が「は」で、次が「が」しかあり得ないのはすぐわかった。こう見えてもネイティヴ・スピーカーあるよ、ぱかしゅるな。

 「感情が存在しない。平安は存在する」

 「感情が存在しない。平安が存在する」

 「感情は存在しない。平安は存在する」

 「死滅がなく、理力はある」
 
 「死滅がなく、理力がある」

 「死滅はなく、理力はある」

 やっぱ変ですよね。リズムとかなんとかじゃなく、意味あいとして変に聴こえる。

 纏め買いして中身を見ず積んでおいた大澤真幸氏の書籍をふと思い立って手にしたのは、なんとその二日後。

 ズバリ、そのネタが書いてありました。「社会は絶えず夢を見ている」という本。

 いや自分が夢を見ているようであった。

 そこに詳しく謎解きが記載されております。詳しくはそちらを・・・。

 って終われないか。ディナーの後ってわけにもいかん。

 でもなあ、難しい本ですからね、私なりの解釈で勘弁してもらおう。

 「思想は言語に深く規定されている」がテーマ。つまり「日本語で考えること」とは、どういうことか、という意味。

 まず、「は」という「特権的な」助詞について。

 文章が「○○は」ではじまる「奇異な」文章は今では珍しくもないが、実は明治時代の大日本帝国憲法あたりがはしりであるそうだ。しかも当時は「悪文」であった。それ以前の法令には用いられていない。例えば「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」、例えば「一に曰く、和を以って貴(たっと)しと為し、忤(さか)うること無きを、宗(むね)とせよ」。
 逆にその時代から、法令や学術論文では確かに数多く見られるようになった。

 ただし「は」の使用自体は別にその時代にはじまったわけではない。
 「が」が主格を表す格助詞であるのに対し、「は」は(ここも私はわざとやってますよ(笑))そうではない。格ではなく「主題」を示す説、「旧情報」(既に提示された、皆が知っている情報)を示す説などいろいろ議論はされてきた。

 ちなみに有名な「ぼくはウナギ」という文章が「主題」を示す例として示されています。知らない人はどういう意味か、いや、どこで用いる文章か考えましょう。私はそこまでやさしくない。つかこのご時勢、ググれば一発だろ。

 付け加えるなら「わたしはカモメ」は? 人類初の女性宇宙飛行士、ロシアのテレシコワの名台詞ですが、チェーホフの戯曲「かもめ」からとった説が定説にされているけど、実際には彼女のコードネームが「カモメ」(チャイカ)なので「こちら、カモメ」の意味だったそうだ。誤訳かい!
 ほらみろ、ググレば色々わかるぞ。

 閑話休題。「主題」説も「旧情報」も著者によれば厳密には違うが、近似解にはなるだろうといいます。

 そう考えると、大日本帝国憲法はますます不可思議になる。「大日本帝国は」、「天皇は」と書いたら(まさにこれから定義すると言っているのにも係わらず)まるで受け手が最初から知っている話題ということになってしまうから。

 さて、もう飽きましたかそうですか。とっととお帰りください。ここからが面白い。

 精神分析の大家ジャック・ラカンは、自著(フランス語)「エクリ」の日本語版の序文にて、「この序文を読んでる日本人は直ちに本を置け」とのたまったそうだ。

 「なんだと?」と色めきたつよね。著者(大澤氏)もあんな難解な著作集を必死に訳した日本人訳者はお気の毒と笑っている。

 ラカンの趣旨は「だって日本人には無意味だよ。君たちには精神分析が必要ないから」というのだそうだ。ますます「おっさん、ぱかしゅるか?」だね。

 ラカンは日本語も学んだ。どこまでできたか不明だそうだが、少なくとも漢字かな混じり文であることを知っている。

 ラカンによれば、漢字(文字)がかな(音)を説明している(注釈を与えている)。だから日本人はヒステリーにも強迫観念症にもならない。精神分析医もいない。(たしかにご自身に精神分析が必要そうな香や・・・うっぷっぷ、みたいな精神分析の人しかいねえな。いや笑いごっちゃなくてよ、こちとら業務上リアルで雇っているメンタル・カウンセラーが続々とリタイアしていくのを見てるからね。どっちが危ないんだよって感じですよ)

 脱線開始。

 ちなみにこの漢字かな混じり文(文字が音を説明する)が、外国語のマスターにあたっても、(日本語のマスターと同様に)読み書きを先行するため結果外国語をまともに喋れない(聞き取れない)日本人が多いことを説明もしている。
 実はアメリカなどでは、母国語ぺらぺらだが一切読めない書けないはザラ。社会問題だ。その手のことをネタにしたミステリーもアドヴェンチャー小説も結構ある。んー、ネタバレになるからどれかは書けないけど・・・。

(もちろんこのブログのスタンスは、英語をマスターしなければならないのは日本人のごくわずかの人たちだけであり、本国で母国語で高等学問をひととおり学べるだけじゃなく、世界中の文芸や論説にも翻訳のおかげで触れることができ、あろうことかなんとSkyrimやMass Effectまで日本語で遊べちゃうなんて、なんて素敵な国なの!です。
 人口70万人のブータンが幸福かどうかしらねえが、こっち一億人だぞ。ところが最近、元マイクロソフト日本の雇われママだったおっさんが、「日本人で英語が必要なのは10%の人」とか書いてるらしい。ぱくられた気がして腹が立っている。ま、皆考えることは一緒と思えばいいんだけど、なんとなくね)

 一方では、漢字を絵の一種であると考えれば、非常に特異な形で発展し、世界を凌駕しつつある日本のマンガ文化の隆盛を説明しようとすることもできる。私見ですが、すげえ乱暴にいうと、これはものづくりなるものにも繋がるんだと思うけどね。マンガ=職人文化=オタク・アドマイア。大陸や半島国には職人文化はありません。悲しいことにそれは奴隷文化なのだ。

 脱線終了。

 ここらの(どこだよって脱線前だよ)論証が、この論説の一番の醍醐味です。宗教(あるいは世界帝国)と密接にかかわりあうラテン語、アラビア語、漢語など「真理語」も登場する。だが、そこは本を買っていただこう。大澤氏の編み出した「第三者の審級」なる概念に触れないといけないし、それを納得することはさすがに(彼の著書を追いかけていないと)きつい。
 すっとばして、結論めいたことを書けばこうだ。

 つまり、必要に迫られてやむを得ず、大陸などから抽象概念を輸入したのだが、日本語は、なんとその全てに対してはっきりと「よそ者」であることがわかるようにマーキング(刻印)したのだ。

 社会、個人、自然、権利、自由など、今ではごく普通に持ちいられているが、非常に不思議なことにみな二字熟語だ。(上のJedi Codeの拙訳を見てくださってもいい)
 そしてほとんどすべて「音読み」である。
 しかも「社会」などどちらの漢字ひとつでも間に合うのにわざわざ重ねた。これは「よそ者」だとはっきりわかるようにマーキングするために。

 最近では造語も面倒になったり、そもそも難しくなってきたこともあって、カタカナのまま書いている。一番上のセレンディピティーなどもそうだし、インターネット、グローバリゼーション、コンプライアンス、アカウンタビリティなどなど。間違いなくよそ者であることがわかる。日本語は外来語の概念(マーク!)をいやいや受容(これも)したが、その帰化(これもだな)を永久(これも)に拒絶(はいこれも)しているのだ。

 日本人は日本語をもちいて、やむを得ずしょうがなくて導入した外来の概念を刻印して「無害化」して、両義的に(ネガティヴでもあり、ポジティヴでもある形で)受容したのだ。
 私見ですが、今も昔も変わらない日本人の舶来かぶれっていうのは、実はこうした歯止めがあったから、闇雲に進んだのかもしれない。

 一時期ビジネスITの世界ではアルファベット三文字の略号が死ぬほどはやった。ERP、CRM、SCM、ETLなどなど。今ではもうあまり聴かなくなった。実はSCM、サプライチェーンなんて、タイの洪水の問題を見てもわかるように、もう大企業のビジネスと切り離せない形で染み付いちゃってるんですけどね。

 んー、「は」の話に戻る前に、だいぶ長くなってしまった。もうちょっと考えてから続きを。 

 

【SWTOR】プロローグ感想(4)

 第四弾はシス・インクイジター。

 SWTOR8つの基本クラスのプロローグ、全部こなすまでそれより先には進むまいと心に決めてそう申し上げていたはずなのですが、こずえ、くじけそう。(いや、あれはゼッタイ挫けるようなタマじゃない)

 ああ、ブログでそうすると宣言なんてしなければよかった。

 Dragon Age: Originsなどのマルチ・プロット・スタートのCRPGならともかく、MMOでそういうアホなプレイやっちゃダメですね。
 ストーリー部分はもちろん長くても一向にかまわないのですが、やっぱ似たような(どころかクラス・ユニークのミッション(クエストのこと)以外、惑星固有ミッションはペアになる2つのクラスでは同じなのだ)ミッションの繰り返しはきっつい。

 SWTORもWoWクローンですから、特にぺいぺいキャラのプロローグあたりでは「自分、ゲームプレイ時間の大半をほとんどある地点から別の地点へ走っているだけだよな」という事態に陥ります。

 自分のペースで1プロローグ(クラス・ミッション、惑星固有ミッション全部あわせて)10時間。かぶっている惑星固有クエストはセリフも読まずにすっとばしてやれば6時間くらいかな?
 (選択肢への回答だけはジェダイ/シス・ポイント、コンパニオン好感度に関係あるから吟味する)

 だから8人全部で60以上70時間以下のプレイ時間の見込み。

 別にSkyrimだって、Mass Effectだって、DA2だって「自分ただ歩いてる(走ってる)だけだよな」という時間はあるわけです。FPSマルチプレイなんて、撃たれて死んで復活してから前線に復帰するまで走る時間がプレイ時間のほとんどをしめている場合があるはずだ。ずっと捕食する側のプレイヤーなんてごく限られたエリートのみだ。認めろ!
 だから、SWTORもその「走っているだけ」時間を差し引いて考えたって、並みのRPG一本分の時間は楽しめることになるのですけどね。

 とりあえずプロローグをメモ代わりに残すのは4つでやめようと思っていたけど、自分で書いていないほうが実は面白かったりしそうなので、それはまとめて後ほど。
 そうそう、舞台となる惑星を同じくする4つの各ペアのうち、自分で選んでいないほうが面白かったりするのもあります(笑)。

 感想といいながら、惑星の設定説明で半分くらいお茶を濁しているので、そこをはずすと薄っぺらになるんだよね。

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2011年12月24日 (土)

【SWTOR】リード・ライター・インタヴュー

http://www.gamespot.com/events/the-hotspot/story.html

 登場するキャスターたちの肩書きが笑えるっ!

 Padawan (うふふ)

 Imperial Storm Trooper (うひゃひゃ) 

 Droid (あるある、ティピカル、ティピカル・・・)

 Lead Writer ?

 彼は本物ではないか。SWTORのリード・ライター、ダニエル・エリクソン氏。

 冒頭の内輪ねたは、ナスダックの取引開始ベルをBioWareの創業者の博士ふたりが鳴らしたと言う話題。BioWareに頼るようじゃウォール・ストリートも、かなーりやばそうだね(笑)。

http://www.gamespot.com/news/bioware-doctors-ring-nasdaq-opening-bell-6347927

 SWTORのライターは常時だいたい12人、のべ20人くらい。同時最大16名だったが、DAやMEなど他のタイトルから返してくれと迫られるので、なかなかままならないとか。
(ただし人員は増員しつつあると。少なくとも、「でかくて高価な列車の先頭車両である」ライター・チームにとってはエキスパンションの準備はとっくに始まっているのだそうだ)

 エリクソン氏はバウンティハンター・クラスの担当で、プロローグやチャプター1のクエストは彼が書いていたそうだ。

 リード・ライターの大事なお仕事は(DAのゲイダーさんもよく言うことですが)自分でもシナリオを書く一方で、他のライターが書いたものすべての整合性をとることである。
 そして、みんな私を褒めなさい。スマグラー・クラスの場合はアクション・コメディを狙ったので目の前で起きる大爆発(大失敗)、バカバカしいくらい滑稽なロマンスなどのハン・ソロのテイストがあるのはもちろん、"Firefly"なども下敷きにされており、そしてなんと!"Big Trouble in Little China"がメンションされているではないか。以前このブログで触れました。
 その事実でわかることは、ただ単にお前が作り手と同じくらいのおっさんであるということだけだと?

 シス・ウォーリアーのチャプター1はオリジナルのKOTORよりも長い。
 すべてのクラスのチャプター1のシナリオを合計すると、開発途中の段階ではNeverwinter Nightsに匹敵していた。(ローンチされたSWTOR製品版はそれほどではない。そんなヴォリュームをハンドルできるエンジンがない)
 だから言ってっぺ。元は取れます。ソロプレイだって取れすぎるくらい取れる。

 一番最初にゲームに用いられたセリフはシス・ウォーリアーのものであるが、それですら「第260稿」のものである・・・。260?

 真ん中くらいで「どうしてSWTORはF2Pにはしなかったのか」という話題になるが、まあ生々しいお金の話にこたえてはくれない。面白かったのは本題のそれよりも、エリクソン氏が"League of Legends"(F2P)について語っていたこと。彼は課金をしたそうである。

 「あまりに出来が良かったため、無料で遊ぶことには罪の意識が感じられたから」

 「お布施」という説もありましたが、そうか、ただ食いする事に対する「罪の意識」ってのも裏返しであるのだな。これは、神道などの現世御利益中心の原初宗教を渡来した仏教とごっちゃにした日本人的発想と、「原罪」がついてまわる白人クリスチャニティー的発想との違いかなあ。

 丁度半分くらい聴いたところで時間切れ。残りはスキミング的に聴いただけですが、MMORPGの根源的な滑稽さである「マッシヴリーな数のプレイヤーたちが全員銀河を救うヒーローってどうなの?」と言う話題(私の場合、まさにそれが辛くて食わず嫌いだった面もある)に関して、「(ヴィデオ・ゲームでは)世界全部を支配できるのにどうして自分ちの裏庭を支配しようとするの?」というシド・マイヤーの名言であるとか、「マーベルのスーパーヒーロー(ヒロイン)たちが300人もいるのに、なぜいつも忙しそうなんだ?」とか面白そうな話もしている。

 それからムジカ博士の「これからはオープンワールドだぜ」という変節に関連して「DAとSWTROの融合みたいな話はあるのか?」という話もしている。
 (おそらくDA2についてのことも関連していると思うが)エリクソン氏に言わせれば「DAチームには少なくともあと一年くらい、背景をより作りこむ時間が必要だったのだろう」ということだ。「DAの世界は作り手の頭がおかしいのではないかと思われるくらい詳細であり、網羅的である」という。MMORPG的なオープンワールドに移行するのは十分ありえるであろうと。
 「それなのに最初のスピン・オフがfacebookゲームってのはどうなの?」というのには笑うしかありませんでした。 

 それでは、みなさまメリー・・・、メイ・ザ・フォース・ビー・ウィズ・ユー。

2011年12月22日 (木)

【SWTOR】プロローグ感想(3)

 第三弾はインペリアル・エージェント編。

 バウンティ・ハンター編と同じ舞台ですが、そちらはまだ途中だ。
 んー、これはエージェント編のほうが愉しそうだけどなあ。

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【SWTOR】プロローグ感想(2.5)

 三発目はインペリアル・エージェント編と思ったが、その前に、恒例のDnDお遊びが長くなったので、これは幕間とする。 

 最近ラノベの巻数で2.5とかやたらあるので、なんのこっちゃと思っていたがようやく知った。本編とは別な短編集なんだね。
 ところが私の身の回りの人に「ラノベ」と言っても、その言葉が「聞き取れない」、オーディブルでないという事態が多発することが発覚しています。まあこれはかつてのSF(エスエフ)でもあった。SMと間違えられる。筒井先生なんてずっと間違えてSM雑誌に出稿していたそうだし。
 「ラノベ」はそうやって読者層を自ら狭めている、が私の持論だ。ま、おいといて。

 ジェダイ・ナイト、ジェダイ・カウンセラー 秩序にして善。

 スマグラー、混沌にして中立、または真なる中立。

 トルーパー、秩序にして中立。

 シス・ウォーリアー、シス・インクイジター 秩序にして悪、または混沌にして悪。

 バウンティーハンター、混沌にして中立、または真なる中立。

 エージェント、秩序にして中立。

 さくっと言うと、こうかな。

 ジェダイとシス以外は、善悪はどうぞご自由にって感じです。別にスマグラーがいい人でも、トルーパーがくそ野郎でも特段問題はない。任務(私的利益)優先なわけだから。

 ジェダイ/シスが「聖」、それ以外が「俗」でもいい。シスに「聖」(holy、sacred)はおかしくないか、というのはあるかもしれないが、私はそれ以外に適当な言葉を知らない。religiousと考えていただければいいかも。さらにいうと「俗」ってなんていうのか知らなかった。religiousにはcivil、sacredにはprofane。holyにはunholyはこれは違う。 

 本題。ジェダイとシスって非対照なんすよね。まずジェダイに「混沌」はありえない。正しいか。

 んー、オビワンは? そうなんだよなー、なんで(ヨーダはともかく)あの人だけ生き残ったか。あれって実は「規格はずれ」なんですよねぇ。「運良く」じゃないんだな。生き残るべくして生き残った。オビワンの師匠もどっちかというと「規格はずれ」じゃないですか。そもそもアナキンはもうジェダイになってはいけない年齢だったのだ。それを無理強いした。そうなるとあの系列はみな「規格はずれ」。それがルークまで繋がる。

 だからこそジェダイは延命することができた、ってのが「スター・ウォーズ」の隠しテーマだと思うんだよね。
 もちろん、その裏にはジェダイの「独善」についての暗黙の批判もある。エピソード3とかのジェダイって、もう腐敗の一歩手前というか、独善のかおりがぷんぷんしてましたもんね。権力は絶対的に腐敗するんです。たとえ崇高な善を標榜するジェダイであっても。

 コメントいただいて気がついたが、映画本編でもアナキンの手によってジェダイ・テンプルでの大虐殺が行なわれる。今回またしてもそのモチーフは繰り返される。
 これもルーカスはいつもワンパターンではなくて、もはやそうするしかない、不可避な展開なんでしょう。

 わかりにくいか。簡単に言いましょう。普遍的な「善」とは何かなんて答えられるという人がいたらそれは嘘ですが、「秩序」とは何かは答えられます。

 映画のマスター・ウィンドゥには申し訳ないが、彼が物分りのとっても悪いジェダイの代表ということにしよう。なぜ彼は殺されて、ヨーダが生き残ったのか。

 前者は「秩序」を履き違えていたから。ジェダイが墨守すべき「秩序」とは、ジェダイ・オーダーが設定した「秩序」なんかじゃないんですよ。(騎士団という言葉も秩序もorderだね)

 フォースとはアクシオマティック(axiomatic)な理(ことわり)。宇宙の公理。それが「秩序」。
 本来、ジェダイ・ナイトですら理解などできない。理解しようと必死に努力して、理解が及ばないことを理解するもの。

 私の理解では、その高みに到達していたのはあの時代にはヨーダただひとり。そして、非常に曲がった方向からだけど、実はうっすら理解していたのが(はねっかえりのはぐれ者扱いだった)オビワンだ。このふたりしかいなかった。

 そしてアナキンが(どうやら)その理解の高みに到達したらしいのは、その時代よりずっと後の話。

 なぜならその三人だけが、エピソード6の最後に登場する。ジェダイのメンバーは他の誰も登場しない。あれは「復活」ではないですね。なんだろう「昇天」か。Jedi Codeにあるように「死は存在しない。フォースが存在する」わけだから。

 シスについては、その成り立ちそのものに抑圧(秩序)と破壊(混沌)が必要となる。だから「秩序にして悪」の「秩序」はジェダイのそれとはまったく違う。非対照です。

 もっとも、そんなに簡単に切り分けられないんじゃねえの?、が一番正しい答えかもしれませんね。わかったつもりが一番危ないわけだから。
 第一、その公理とやらではダーク・フォースの存在も認められているわけだろ?
 そうなんだよね。私の立脚点がすでにダメなんだよね。 

 なにが普遍的な「善」かは言えませんが、昔こういうことを書いていたら、「最も対極にある悪の存在を呼び込む(寝返らせる)のが最高の善の形である」という指摘を受けました。

 元はジーザスの逸話なんですね。パウロの回心譚を言っているのでしょう。

 アナキンの物語も一緒です。この手の話は皆似てくるに決まってるんです。
(アナキンの場合は、まず善から悪へ、そして悪から善へ、転換が二回ある。一回目は四肢と妻を喪い、実は双子を得る。二回目は命を喪い、息子を救う)

 だから「スターウォーズ」はやばいんですね。あの後、誰が何をやっても「スター・ウォーズ」の焼き直しといわれてしまうわけだから。

【SWTOR】プロローグ感想(2)

 スマグラー編。

 これはトルーパー編と同じ舞台であり、個人的にはどちらもプロローグを終えている。
 正直ここに書くのにどちらを選ぶか悩みました。どっちも面白い。

 やっぱ、「中立」の物語って幅がありますよ。スマグラーはDnDでいうところの「混沌にして中立」(法ってなあに? とりあえずいくらくれる?)、トルーパーは「秩序にして中立」(サー、イエッサー! 命じられれば死地へも赴く)のそれぞれ類型ですからね。

 悩んだが、ここはハン・ソロに敬意を表してスマグラーにしておこう。
 いやいやトルーパー編もなかなか面白いですよ。

「続きを読む」の下。


 

 

 

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【SWTOR】プロローグ感想(1)

 ジェダイ・ナイト編。

 しっかし、共和制側どんだけお人よしなのよ、とお感じになったかもしれない背景設定。
 まあ、でも実際の歴史もそうだよね? そうじゃなきゃ(どっかにお人よしでもいなければ)戦争なんておきやしません。 

 こっちからすると伝説のジェダイとか言ってるなら、そういうシスの陰謀にいい加減気がつかないものか、と思いつつ、シスも本意を巧妙に隠すことには長けているんだろうかね・・・。
 あんな顔つきしてたらジェダイじゃなくても誰が見ても「邪悪」なんですけどね。

 そんじゃあ、背景説明もできたんで、プロローグの感想第一弾。
 ジェダイ・ナイト編を「続きを読む」の下から。

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Dragon Age 2 プレイスルー

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