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2011年12月26日 (月)

【SWTOR】「死は存在しない。フォースが存在する」(3)

 このブログが新環境に移行する最後を飾るに相応しい大ネタかと思っていましたが、だいぶグダグダ感が漂ってまいりました。

 んー、だって難しいんですもの。
 でもやっぱ今の時代は社会学とか脚光を浴びて欲しいなあ。全然ダメなんだそうだ。サンデル博士じゃないが、最近の学生は「正義とは」なんかに興味が完全に傾いてるんだってさ。そちらは(そういう分類に意味があるとすれば)政治哲学と呼ばれており、大澤氏(彼ももちろん博士ではあるが)などの領域は社会哲学というそうなんで、被ってるはずなんだけど、後者は人気がない。社会学には何か変なレッテルがついてしまってるんだろうか(ぼんやりわかって書いてますけど)。

 「正義とは」ももちろんとても大事なんだけど、サンデル博士ブームでそっちに行くってのはうそ臭いなあ。実はこれがブームになった理由には、つい最近まで誰がなんと言おうと戦時中であったUSと、太平天下だった日本では明らかに異なる部分があったはずだと思う。日本で火がついたのはこれもまた「コンプライアンス」ブームの一環なんだと思うけどね。「エコ」に飽きてきたらしいし。
 むしろ、これをことさら日本の大震災にこじつけるのはどうかと思う(もちろん「正義」と核燃料問題の間には密接な関係があるのは間違いないのですが、大震災と核燃料問題は一緒ではない。むしろ皆が「エコ」に飽きてきているのがすごいと思うが、これは成熟なのか諦観なのかどうなのか)。
 それもかかえているネタのひとつなんですが、大ネタになるから年明けかなあ。
(追加:大震災の復興と正義は実は関係があると気がついたが、長くなるんでまた別の機会に。資金を平等に配分せよとかそういうゴミみたいな話じゃなく、実は互恵・互助の話なんだ)

 大澤氏も書いていましたが、彼自身も仏語、英語はそんなに喋れるほうではなかったが、やむにやまれず訓練してできるようになられたんだそうだ。
 面白いのは、社会科学系の学問領域ではあまり外国語を用いずに日本語で論文を書くケースが多いが、経済学や心理学では、自然科学系と同様に外国語(主に英語)で論文を書くのが普通である、と書かれていたこと。

 私見ですが、経済学や心理学はやっぱり(特に日本で、実は世界中で)差別されていた領域だからでしょうね。つまりそれらは「学問」じゃないだろうというレッテルを貼られていた。(申し訳ないが考古学は今も昔も学問ではないと言われ続けている)。
 ところが経済学や心理学は高等数学を駆使することで、いまやどちらも社会科学系の雄になっているとも聴きます。コンプレックスの裏返しでしょうかね。

 逆に言えば、それ以外の社会科学の分野はそこまで抜けにはされてこなかった、ということになるのかな。 

 知らん振りして逃げたいなあ・・・。でもまとめなければいけないようなんで、まとめます。
 一回目は次の部分まで書きました。

 日本人は日本語をもちいて、やむを得ずしょうがなくて導入した外来の概念を刻印して「無害化」して、両義的に(ネガティヴでもあり、ポジティヴでもある形で)受容した。

 実はしばらく前、FF「零式」の記事で、日本人てば「れい」(絶対零度、零点、零時)とか「ゼロ」(ゼロ戦、あと番号の数え方)とか読み方ばらばらで、統一性がないような話題をしてました。そのときも零(れい)もゼロもどっちも外来語だからどうでもいいんだろうなと書いてましたが、それもきっと正しかったんだな、とこの本を読んで改めてわかった。

 マーキングとは、日本語が漢字かな混じり文であるから可能な、外来語をハッキリとそれとわかる形で刻印すること。カタカナ外来語の話は自明であるから置いておいて、社会、存在、自由、自然、超越、それこそ上でいうような正義のような、奇妙な二字熟語の羅列であること。そしてほとんどが「音読み」である事実に注目。

 特に「社会」のようにsocietyの意味であるなら、「社」でも「会」でもどちらか一方でもよかったのに、なぜわざわざふたつ重ねたのか。「存在」も「存」でも「在」でもどっちでもいいじゃないか。「超」、「越」。「自」、「然」。「正」、「義」。
 もちろん全部が全部そうではありません。例えば「自由」は「自」に「由」るですからね。

 大澤氏は、輸入した日本人が"society"をやまと言葉の「よのなか」とも「みんな」とも、あるいは既に輸入されていた「世間」(せけん)でもなく、ましてや「社」(漢語でも共同体の意味ですからね)でも、「会」(人が集う意味ですしね)でもなく、「社会」にした理由を次のように説明します。

 それは、わかろうとしなかったからです。わかってはいけない。「何としてもほんとうには理解しない」態度だったから。

 カタカナ語に戻ると、私はコンプライアンスを変に訳すと意味が曲がる、趣旨を誤る、などと書きました。それが入り口の態度ですね。意味を示す丁度よい日本語も漢字もありません。だったらそのままでいいやん、という態度です。誤訳による過失を防ごうという意識的な態度ですね。

 でも大澤氏が述べているのは違います。完璧にわかったような理解、完全にわがものにし、内面化されてしまうような理解を無意識に回避しているのではないか。

 上の(私のような表面的な)態度は「誠実」そうにみえて、実は(後者のような無意識があるのであれば)とても「倒錯的」な態度である。日本人(日本語の話者)は、外来語をわかってはいけない。近似値として理解しなければならない。
 西洋由来の概念は「ほんとうには理解できない」、さらに進んで「何としてもほんとうには理解しない」という屈折を大澤氏は指摘します。

 またそれは、明治時代にそうした外来語の翻訳を手がけた福沢諭吉などに留まらず、仏教伝来の時代から日本人に通じる態度であると指摘します。日本に伝わった仏教の経典は実は原典が漢語に翻訳されたものですが、日本人はついにそれを日本語には翻訳しませんでした。「わかってしまう」ことに抵抗があった、と大澤氏は言います。

 私も気がついた例は、(上でいう日本の経済学がある時期バカにされたひとつの契機でもあった)マルクス経済学ですね。ほんとうに理解した人などごくわずかで、「なんだかさっぱりわからない」、「ちんぷんかんぷん」だからありがたい、ははーっと、おしいただくという発想が蔓延していたんだなあ、と思います。(「ちんぷんかんぷん」こそ、漢語の儒教思想がさっぱり意味不明であるという語源でしょう)

 順序が前後してしまいましたが、「は」という助詞の役割もまた、こうした日本人の感覚を示しているものだといいます。
 「は」は文(ピリオド、句点)も越え、節(カンマ、読点)も越える。

 くどくて長くなるので、ピリオドを越える例を引用します。超有名な文章で、都合のいいことに明治の文豪の作品。

 我輩は 猫である。

      名前はまだ無い。

      どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。

 「我輩は」の「は」は、三つの(句点で区切られた)文にかかっています。

 同じように「カンマ」を越える例もいくつもできます。
 「は」は、文を越える、文の境界を横断できる唯一の文法的要素です。これによって、対比であるとか、否定であるとか、今まで色々議論されてきた「は」の機能が通底していることがわかってきます、と大澤氏は述べています。

 表題の文章(文二つからなっています)を変更して「死は存在しない。フォースは存在する」としたらこれは「対比」を強調した場合、そして「死は存在しない」の「は」は強い「否定」を示す。
 私の訳文は、もちろん強い「否定」を利用することを考えていますが、対比については「弱すぎる」ので表題のように後者を「が」に変えました。なぜなら「死」と「フォース」は対比(並置)してはならないものだからです。

 なお、原文は、セミ(セマイ)・コロン、";"で区切られています。

There is no death; there is the Force.

 だから厳密には「ふたつの文」ではないのですが、実は、このセミ・コロンはとっても窮屈な英文法の世界の逃げ道なんですね。

 もし二つの文をカンマ","で区切ったら、その英文は不正です。接続詞とかなしでそういうことしたらダメです。二つの構文をそのままぶんなげては置けません。でもこの文章で接続詞を投入したらあまりに冗長です。
 もしこの二つの文をピリオド"."で区切ったらそれは正規の英文です。(もちろん後ろのthereはThereに直さないと減点です!(笑))
 でも同じ事象(この宇宙のありよう)を説明するふたつの文はそれによって完全に分断されて、余韻が著しく損なわれます。
 セミ・コロンてのは、そういう事態を回避する苦し紛れの方便であると理解しています。  
 そして、(傍証としてあげておくと)かのカード・ヴォネガットに言わせると、小説家たるもの、「ゼッタイ使っちゃダメ」だそうです。ところがBioWareのライターたちはこれでもかというくらい多用しています(笑)。どっちかってとインテリの人に多用する人が多いですね。

 さらに「は」は、話者までも越えてしまいます。

 SWTORは なかなかいいよね。
        ちっとも面白くないよ。
        八つもイントロのストーリーがあるんだぜ。
        全部陳腐でおざなりじゃん。 

 ふたりの間でSWTOR(という話題)がバレーボール(あるいはキャッチボール)のように、とびかっているのか?
 それとも、SWTORという「土俵」にのった二人が相撲を取っているのか。「コート」でも「グラウンド」でもいいけど。

 大澤氏は(他の学説を引用して)「場面」という説をとっているようです。私の比喩はイマイチだが上だと「土俵」、「コート」ですね。「場面」とは、対話者が生きているそのこと、とりまく全ての関係性とか、説明があまりに難しいのでそれで勘弁してくれ。 

 このように「は」は、日本語の中でずば抜けた重要性を持つといいます。
 日本語とは間身体的な現場(これが「場面」ですかね)に直接結びついた言語ではないか。つまり聴き手が目の前にいる前提で書かれている。よって、そうした共存する場面から、普遍性へと離陸しにくい構造をもっているのではないか、というのが大澤氏の考えです。

 マーキングされた外来語とは、一般に「普遍的な」概念を示す言葉でした。日本人(日本人の話者)がそれらへの理解を適当なところでやめる、いや、それらを完全には理解しないように必死になる、というお話と繋がっています。

 そして大日本帝国憲法が「は」を連発しているのも、じゃあ、結局その憲法に書いてあることは誰が知ってるんだよ、という話に繋がる。誰が話者なんだろう。誰が理解しているんだろう。

 最初に「は」を用いる場合、受け手が知らない話題は持ち出せません。物語の劈頭でいきなり「昔々、おじいさんとおばあさんはいました」とは日本人は言わない。「がいました」です。でも、次に「おじいさんが山へ芝刈りに、おばあさんが河へ洗濯に」というのは間違ってるとまでは言わないけどもう話に出ちゃってるわけだから、やっぱちょっと変です。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは河へ洗濯に」でしょうね、普通なら。最初が「新情報の「が」で、後が「旧情報」の「は」という説にも合致している。それから後のふたつの「は」は「対比」ですね。

 桃太郎ならおばあさんのほうがクエスト・イヴェントにぶちあたる(どんぶらこどんぶらこ)。冒頭部ちょっと違いますが竹取物語ならおじいさんのほうがコンパニオン(つうか実はヒロイン主人公)を獲得する(光る竹)。マルチ・オリジン・シナリオじゃないけど。ここはどちらも美麗なカットシーンが入るところでしょうね。
 まあ、どちらも「は」でいいんじゃないですかね。どちらかを「が」にしてしまうと、「ん、なに、なんか伏線?」と変なミステリー性が生まれちゃうし。「おじいさんが山へ行ったにもかかわらず、なんと、おばあさんは河へ!」みたいな。

 上の例で、SWTORをたとえ相手が知らなくても「SWTORは、なかなかいいよ」は言えるじゃないか、という意見ありそうですね。つか私が思いついた。全く関係ない人にいきなりヴィデオゲームの話題したら確かに変ですね。でも例えばこのブログで、冒頭に「やっぱFFXIII-2はいけるわ」と書いても何の問題もない。ほとんどの読者はなんの話題か知っているだろうから。だからもし二人で出会って、上の「SWTORは」という話を切り出せるなら、気心が知れた仲であるということでしょう。同じ土俵にいる。

(では「メロスは激怒した」。これはどうでしょう。この話、考えれば考えるほど面白い)

 「大日本帝国」ってのは、この憲法でいきなり出てきたわけだから、そういう世界が成立しません。少なくともわかっているのははじめて聴いた(読んだ)はずの民じゃないですね。お上かな。きっとお上がわかってるんだ。日本語のネイティヴ・スピーカーなら自然にそう考えますよね。
 でもお上だって知らないかもしれない。実際知らないんですよ。知らなかった。きっと西洋の誰か偉い人はわかってるんだよ。
 そうやって安心するというか、真の理解を超越的な存在(お上とか西洋の偉い人)に託して、自分では理解を拒絶しつつ受容する態度。そういう超越的な存在を外部に措定することを通じて、今ここに存在するわれわれの統一性が保障されるという、実に厄介で、手の込んだ仕組みであると、大澤氏は指摘します。  

 最後にラカンの「日本人は、自分の精神分析の著作を読まんでよい」という言説の謎解き。
 漢字かな混じり文をもちいている日本人(日本語の話者)にはどうして精神分析が必要ないのでしょうか。

 大澤氏はボーデンハイマーの「問いの猥褻性」なる言説を持ち出します。「問いは一般に猥褻である」。
 あー、書き間違いじゃないよ。猥褻(わいせつ)だよ。
 ちょ、待て待て、こっちだって辛いのだ。せっかくここまで読んだではないか。なぜここで立ち去ろうとする? 心配ない、あともうちょっとです。

 なぜ問いは一般に猥褻なのか。なぜなら、最終的に問われた方が答えられない事態を想定して問いを発するから。問われたほうの無能力、発話不能性を前提にしているから。むしろそれを標的としているから。
 フロイトのいう「我々の存在の核」なるもの、自分自身のごく内密な部分を攻撃の対象としているから。裸が恥ずかしいように、それは決して他者に見せられないから。そして衣服は着替えられるが、裸からは決して逃げられないから。
 それこそ「私自身」であるのにそれを引き受け、これが「私だ」と認めることが容易にできないから。問いはその羞恥の核を目指すから。暴力的だから、猥褻なのだという。

 そしてその裏返しとして、語りとは、原理的にすべて(誰かからの問いに対する)応答・回答なのではないか、というジャック・デリダの説が提示されます。

 なぜ問われてもいないのに話し始める? なぜ誰からも頼まれてもいないのに(いやむしろやめとけと思われているのに)ブログを書く? メールを送る? ツイッターを(私はしないが)する?

 それは問われている気がしているから。詳しくは省略しますが(この本を買うか立ち読みしてください)、日本語でも英語でも、構造上はすべて誰かに答える形式を隠し持っているから。独り言であれ、そうである。語りとはすべて不定の他者に対する応答・回答なのかもしれない。誰ともわからない誰かのなんとも特定できない問いかけにせき立てられるようにして答えようとしている、というのがデリダの説です。そして今この瞬間の私がやっていることがそれだ。

 精神分析の治療対象は、私が誰か、何者であるのかという問いに答えられなくなっている状態にあるとする。その応答不能性が身体的に(心身の症状とか言動の固有の偏りとして)表出している。つまり上にいう羞恥の核がむき出しに曝された状態であるとすれば、日本人がなぜラカンの本を読む必要がないのかわかる、といいます。
 そうでない状態を考えればいい。「問われても答えなくていい」状態です。

 もう、おわかりですね。

 答えなくていいんです。知らなくていいんです。ほんとうに知ってる誰かは他にいるから。んーそんなこと聴かれても実を言うと、よくわかんないんだよね。でも心配ないさ。大陸とか西洋とか、きっとどこか他には肝心なことは全部知っている、承知している、わかってる人がいてくれるはずだから。

 気楽なもんです。そして、もしあなたが日本人(少なくとも日本語の話者でしょうね、こんなわけわからん日本語をここまで読んでいるんだから)なら、きっと否定はできないでしょう。いやあ、否定してもいいし、無視してもいいよ。だって日本人の特権として、問いに答える必要はないのだから。 

 代償はなんでしょうか。そんな特権的地位、安楽を享受するだけで済むわけないよね。そう身構えるのが自然な態度でしょうね。

 考えればあっさりわかりますね。普遍的なものに直面できなくなるのですね。言語を語る主体の普遍的な真実に直面できなくなる。
 日本人は永久に普遍的真実に立ち向かえないのか。

 大澤氏は、そんなことはない、解決策は拍子抜けするほど簡単だといいます。
 その、すべてを知っていると想定される超越的な存在に、「あなたは本当にわかっているのか?」と問えという。子供のような無邪気で素朴な問いを発しろ、という。
 おわかりのように、超越者は、別に大陸とか西洋にいるわけではありません。私の、あなたの中にいる。その存在に素朴な疑問を問いかけろと。

 できれば自問自答で終わるのではなく、他者を前におくのが望ましいのはいうまでもないわけですけどね。なぜなら内なる超越者との対話は、それは実は挑戦であるから、容易に挫けて、妥協してしまうことが想定されるから。

 いやね、私だって最後のほうは騙されたような気分になりますが、まあ、面白かったからいいか(まさにその態度が)。わからなかったらまた大澤氏の本を読めばいし、なんだったら日本人なんだから質問しちゃおう(それもだ)。

 でも、それなりになぞってきてみて、自分としては、かなーりなお得感が漂っています。なんか色々なものを貰ったなあ。

 実は、ここまでふれてきた部分は、この本の第一章でしかないんですが、もう元は取れたな。

 頼まれてもいないのにブログを書くことも、見えない誰かに必死にせきたてられるようにしているから、というのはもうナットクしまくりですね。

 そして、日本人の稀に見る圧倒的なブログ(に限らないが、私は他のツールの世界統計を知らない)好きも説明できるんだろうな。日本語ブログの世界一位の地位はまったく揺らいでいないようですから。

 そうそう、facebookなんてまさにそれだよなあ。完璧休眠状態ですが、ブラウザ・ゲームにフレンド登録しろとうるさいからやむを得ず見に行くと、それって自分の裸まで曝してないか、と辟易するようなページもあるんだよね。実はそういう人だって、それ以外に羞恥の核はあるんだろうけどね。

**********

 読み直すと、内なる超越者に子供のように素朴な問いを発せよというところを書いていたとき、以前に触れた筒井康隆先生の「驚愕の曠野」の印象的な一シーンを想起していたことを思い出した。

 始まりも終わりもなく、生きる目的すらも不明な荒野に人々が蠢く世界で、作中のある男は、あるときこの世界で十四尊仏の名を馳せている高僧のひとりと出会う。
 ところが男は、この賢者とみなされている男が、実はなにひとつ知恵を有していない(この世界について何もわかっていない)ことに気がつき、このままひきずられては自分の身も危ういと考えて殴り殺してしまうのだ。
 個人的にはこの小説で最も印象的なシーン。

 筒井先生も社会学・心理学の分野を学ばれていたそうだ。通じているのかなあ・・。

**********

 参考までに「走れメロス」の冒頭部分。もう、ネタがバンバン落ちてます。

 メロスは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐 ( じゃちぼうぎゃく ) の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

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