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2011年11月 9日 (水)

世界の創造(前置き)

 なにか頭の中でずっともやもやとしているテーマを考えるネタってことです。

 だからテーマが「世界の創造」であるかどうかもわからない。だいたい何を書きたいかもわかっていないから、順番も何も思いついた順番、デタラメです。

 ブログ(だけではないが)のいいところは、適当に書いておいて後からいくらでも手を加えることができること。何かの予想が外れたらその記事を丸ごと削除しちゃえるし(それで逃げられるわけじゃないけどね)。
 ワープロの良いところでもあるけど、不特定少数(笑)の方に公開しているので(誤字脱字レベルからはじまって)もっとちゃんとしないといけないと思うから、不確かな点を調査する、加筆修正するモチヴェーションも高い。

 この(なんのネタかもわからない)ネタ、収拾つかなくなるからボツだよなあ、と諦めていた。

 「零式」を久々に再開した。クライマックスまでまだ少しあるようだ。もう世の中では何周も先行しているプレイヤーがいるでしょう。
 そして色々言われているでしょう。

 ここのブログではゲームプレイ自体はあまり話題として触れないことにしてますが(私ごときのプレイの何が参考になると?)、「零式」の体験版では正直「あんましこなれてないけど大丈夫なのか?」と感じてしまう面もあったことは否定できません。簡単に言うと「敷居」が高いんじゃないかと感じた。それ自体は悪いことではないんだけど、Demon's Soulでもてはやされた「取りあえず死んで覚えろ」という風潮のまたしても悪しき面だけ真似をしたのかと。

 本編はそうではなかったので安心しました。確かにかなりコツはいる。ただただ逃げ回るのが最良の戦術だったりもする。自分ではあまりハマっていなかったが「モンハン」が遊べるっていうなら、こんくらいできんじゃねえの?という発想で作ったかな。
 コンバット・ゲームプレイ関係については、ニ三のイライラする点を除けば、概ね好印象。

 やはりここでの興味の対象となるのは、物語面。これは予想通りというか・・・。

 物語世界はFFXIIIの世界と共通で、ルシがどうとかさっぱりわからないだろうと以前書いていた。そのまんまですね。聞くところによれば一周遊んだくらいでわからせるつもりもないそうだ。しかし、私の場合きっと何周遊んでもわからないと確信している。

 この議論になると必ず信者サイドから出るのが「途中までしか知らないくせに余計なことを言うな」という議論。つまり法典は何度も読み返してこそ理解ができる。聖書はすべて暗誦するくらいでなければならない。
 衆生の救済(仏教)、人間全てを対象とした救済(キリスト教)が目的である宗教がそんなはずはない。
 ちなみに「零式」でいう「有情」も「衆生」と同じ意味です。反対語は「非情」、生きていないもの、転生しないもの。

 ましてや娯楽。世界を(そう簡単には)わからせたくないなら、わからせないための意味が欲しい。
 私の疑いは、作り手自身(たち?)も、実はさっぱりわかってないんじゃないかというものだ。

 例えば、人は死ねば人々の記憶から消え去るという。そんな設定、以前からあったっけ? 
 それが「周回」を重ねなければならないゲームのつくりに関係していることも、「デジャヴ」なる言葉が作中頻発することも、その縛りからどうやら逃れているらしい登場人物がいることも、すべて仕掛けになっているのはわかる。繰り返すが自分はまだクリアしていない段階だ。

 だが、このゲームの物語は、そういう設定をご丁寧に時系列でやってしまうとメチャクチャになる、ということまで証明してくれてしまっているようだ。本来であれば、作中の登場人物たちは、もうすでに先立った多くの人たちのことを「忘れていなければならない」はずだ。

 こういう設定にするなら普通はそういう物語になるはずだ。エース(登場人物)はマキナ(別の登場人物)の自分への誹謗の意味すらわからず、まったく謂れなきものだと受け止めるはずだ。エースとマキナが記憶を喪う縛りから逃れているなら、真実が(あるとして)徐々に判明していく形になるはずだ。

 ところが、この物語ではなぜか「出オチ」である。最初に何が起きたか見せられたら、とてもではないがふたりのどちらかに(死者についての記憶を喪う辛さについて)コミットすることはできない。物語は記憶を喪うなんて設定がまるで不要のように、ただ単に肉親を殺された恨みと、友人を戦場に送った悔いという、ごくごくふつーのものになってしまう。

 この設定をなぞる、一般化・普遍化するためのシーンも用意されている。
 自分が戦場で先頭にたつのは部下をできるだけ危険から遠ざけるためだ、と雄弁に語っていたあるNPCは、登場人物たちの面前で戦死する。だが現場に駆けつけた部下たちは「丁重に弔わなければ」ならないという。では部下たちは、戦死した彼女の記憶をいつなくすのだろう?

 死ねば記憶からなくなる、という設定は別段新しいものでもない。「灼眼のシャナ」でも用いられているし、他にも数多くあるだろう。
 「シャナ」では、喰われた人間は元々いなかったことになる、という点で、「零式」のようにそういう人物は確かに存在していた記憶は残るが、具体的にどんな人物であって、自分とどんな係わり合いがあって、どんな言葉を交わしてきたかという「自分との関係性」を忘れるのとは異なる。

 前者は、ザックリ言ってしまえば「そもそもこの世は夢じゃないのか」という世界観でしょうか。隣の席の彼女はそもそも生きていない、街半分の人間がそうである。この世は夢うつつである。あるいは夢がこの世を侵食している。主人公は自分自身もすでに同じように死んでいることすら気がついていない。

 異次元の侵食によって死んでしまった人間たちが行なうべきであった営み。それが喪失されることによる世界の歪みを最小限に食い止めるため、つまり世界をなんとか修復しようとして、(理由があって食い尽くされずに残る人間の残滓から作られる)トーチなる存在を代替物として一定期間配置する。その場しのぎの苦肉の策。絶望的で無謀な試みであることはすぐにわかる。そしてトーチは残滓のエナジーを用いているのだから、それが切れれば消える。トーチ自身も消失することすら知らず、周囲の人間もトーチの存在自体が記憶から消える。

 そうした世界観を最後まで物語がうまく使えたかどうかはちょっとあれだが、背景設定だけでも、すでに勝ってしまった例だといえるでしょう。

 このように別段ファンでもない、アニメシリーズをざらっと観ただけの私ごときが、ほとんどソラで(一部固有名詞はWikipedia(jp)を参照しつつ)、これだけ書けてしまう(説明できちゃう)ということは、とてもロバストな(堅牢な)世界観を作り上げたということです。それだけじゃなく、印象的でもある。デタッチメント(あるある、そういう世界ならそうだろうなきっと)という部分も、コミットメント(今隣にいる女性が死んでいたらどうすんだよ、自分がそうだったらどうすんだよ)の部分も読者(視聴者)の心、とりわけ多感な思春期の心をうまく掴める造りになっている。

 比べる相手がちょっと悪すぎた(つまり「シャナ」の設定ができすぎであった)かもしれないが、「零式」の死生観への疑いは「知り合いが死ぬとか悲しいから忘れちゃえ」という、極めて幼稚なものじゃないのか、ということだ。杞憂であって欲しいが。それ以前に「シャナ」と異なり、物語の語り方としても、すでに設定との関係が破綻している気がしてならない。

 身近な者の死に触れたので抹香臭い話になっていたらすまん。

 本当のテーマは、「ゲーム臭い世界設定が旺盛になったと感じるのは本当か、本当ならなぜか、それはいつからか」とか、そっち方面だったのですが、上の話は、ふと思いついたので書いておく。

 人は死んだら記憶にしか残らない。その記憶すら喪ってしまうというのであれば、とても面白いし、死生観としても大事なテーマになりそうなのにもかかわらず、「零式」のその部分が予想どおりいい加減だとしたら腹が立つので、先に怒っておく。そうでなかったら(この記事自体を消してみんなの記憶からも消す、んじゃなくて)、謝ります。 

 

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