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2011年11月25日 (金)

コピーのコピーのコピー。

 新聞が有名人の行為をあげつらって、それにネットがこんなこと言ってますよー、という記事出すのは「もういい加減やめろ」と思います。有料購読者として言う権利はあるはずだ。

 産経新聞はじめ(つか産経新聞が一番多い気がするが)みなそうやって元手のほとんどかからない記事で数を稼ぐ。次の記事に関しては発信元は新聞社ですらない。

(お断り:本当は元ねたの朝日新聞の記事を読んでからじゃないといけないだろうけど、テクニカル・トラブルでそこだけ読めないのだ。後日何かあったら修正・加筆します)

 つまり「今のアニメはコピーのコピーのコピー」という表題からして、「この記事さえもコピーのコピーのコピー」(ネットをコピったJ-CASTの記事をコピッた産経)であるという複合的なマトリョーシカ(入れ子構造)。そういう意味では興味深い。

http://tv.jp.msn.com/news/article.aspx?articleid=767589 

 まずコンテンツについて一言私見をいえば、「押井さん、映像表現者なんだから、まず映像で批判をたたっ殺してみせてよ」という点がひとつ。裏返して「この人は(当然なのかもしれないが)なんて言葉が雑なんだろう」という点。

「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」

 記者(この場合J-CAST)によれば、昨今のオタク消費型コンテンツは新たな創造性や、作品を通じて訴える思想的なものが欠如しているそうだ。つまり(世界に対する)「批評性」に乏しいと言っているわけですね。そして(さえない男子に別嬪の女子が群がる)「ハーレム・アニメ」の勃興がその顕著な例かもしれないとしている。

 ちょっと待ってくれ。ハーレム・アニメの勃興こそが「何か」を「表現」してんだべ?
 ラノベのあの信じられない隆盛ぶり、カオスぶりは「何かが起きてる」と考えずにいてもいいのかい? 偶然なのかい? 

 コピー化についてはかねてから宮崎駿も危惧していたという。

 そしてネットの皆様。「現在主流となっているアニメのファン達は、自分達の趣味趣向、好きなアニメを批判するのは許せない、と激しく反発。しかし理論で立ち向かえないからなのか 『押井のアニメくそつまんねーんだよ』、『押井も信者向けの消費財じゃん』などといった作品批判や、人格批判へと発展し、大混乱となっている」

 「理論で立ち向かえないから」(笑)。
 おいおい。
 負けんなよ!

 まあ、しょうがない。(アニメ・ゲーム)オタクのありようからして、サブカルチャーに代表される(社会全体から見て)極めて狭い(オタクではないものにとってはどうでもいい)特定分野に限定された強い関心・興味を抱き、それら分野に包含される事象(アニメ・ゲームの場合は世界設定とかキャラクターなどが代表だが、それに限らず声優、デザイナー、アニメーター、アニメーション技術、ゲームシステムまで含む)の細部・ディテールに偏狭的(偏狂的?)に注目するあまり、社会全体とその特定分野の事象との関係性について倒錯的な混乱をきたす(つまり現実社会と仮想社会とどっちがリアルかわかんなくなってもそれでもいいやと思う)傾向があるし、とりわけ職人芸的な世界に対する嗜好が強く、それらを発見し、類型・類比に基づいてミクロ的に分類することを至上の悦びととらえるわけだから、体系的に反駁するとかめんどくさいことは苦手なのだ。
 ほんとは他の分野のオタク、日本史オタク、天文オタク、鉄屋さんなどもこういう公式に当てはまるわけだが、門外漢なのでそこはやめておく。

 まず押井さんのだって宮崎駿のだって、理論でもなんでもないじゃん。感性がそのまま口をついてるだけじゃん。「いまどきの若いもんはなってない」という人類社会が続く限り永久に続く老人の繰言だべ。 
 ただそれだけなのに、自分がビッグネームだと承知のうえで「この印籠が目に入らぬか!」とやるから、皆でへそ曲げてんだろ? 

 『押井のアニメくそつまんねーんだよ』、『押井も信者向けの消費財じゃん』というそれぞれは概ね正しい。特に最近のものは「ああ、押井さんも途中で飽きちゃったのかなあ」というものばかりだ。

 こっちもネットに書いている以上、「ネットの皆様」の一員。私の場合、「バカ」で、かつ「暇人」だ。

 私は押井さんとは戦車好き同士なので共感できるところもあるけど信者でもなんでもない。むしろ「お弟子さん」の神山さんのほうが溢れ出るアイデアや、共感性の高い物語づくりからも、商業作家としては優れているのはたぶん間違いない。カリスマはともかく。
 宮崎駿は呼び捨てであることからおわかりのように、アニメーターとしての比類なき才能はもちろん否定しないし、誰もできないだろうが、それ以外はただの「クソ面倒なおっさん」だと思っている。まあ、ジョブズにも通じる「クソ面倒なおっさん」であることこそある種のカリスマの根源かもしれない。

 押井さんが直接批判しているわけではないが、記事では「萌え」のせいにされているので、ちょいと弁護してみよう。「萌え」とかいまいち定義できませんが、「記号」でいっちゃうこと? 
 私だと女性パラディン(DnD)、ライトニング(FFXIII)、セブン(零式)などの類型キャラにとりあえずコミットしちゃうってこと? でいいのかな? 違ったら教えて。

 フェティシズムは「モノ」が対象だけど、「萌え」の対象はキャラクター(犬猫含む?)でいいの? 「メガネ萌え」とは言わないよね。「メガネっ子萌え」はあるけど。「ツインテール萌え」といった場合、髪の毛に注目したらフェティシズムだけど、そういう髪型の女性に注目したら萌えでいい?

 そしてそういう類型が成立すれば、置換可能であると考えていい?

 例えば、Fate/Stay Nightの遠坂凛はツインテールであること、イメージ・カラーが赤であることから、エヴァ・アスカを明らかにリファーしている、置換可能であると考えていい?
 そうしてツインテール・キャラをいくつか思い出せば(って私にはあまり出てきませんが)エステルであり、スクランのエリであり、ぱすちゃの竜胆リナ・・・、まあ他にもありそうだが、ある特定の属性をコノート(含意)していると考えていい? (あれよ、あれ)
 そうしてラノベ集のイラストを眺めていれば、ツインテール・キャラは山ほどいるけど、必ずそうした属性類型に位置づけられるか、またはその裏返し(つまり定型の否定)のどちらかであることがほとんどであると読んでもいないのに結論付けていい?

 つまり、私が「萌え」なのかもしれない「ライトニング属性」は、実は「パラディン属性」、「オスカル属性」、一般化すると母性を前提とした「ガーディアン属性」なわけだが、それはアニメ・ゲーム世界では決してツインテールでは登場しない。これはいい?
(ところが、ツンデレ・キャラは(言っちゃった)、必ずツインテールである、は成り立たない)

 ちなみになぜ私が「ガーディアン属性」萌えかを説明することもできる。私の類型が「女性・男性・サド」だからだ。女性的な面の強い生物学的男性で性的嗜好がサド。こういう類型が(ヘテロセクシャルであるとの前提で)好むのが裏返しの「男性・女性・マゾ」。男性的な面の強い生物学的女性で性的嗜好がマゾ。そのまま「ガーディアン属性」であることがお分かりいただけるだろうか。この話も機会があれば少し詳しくやってみてもいいかも。

 こうして特定集団(アニメ・ゲーム・オタク)に一定のルールが形成され、暗黙裡に合意されること。なんていいます?
 「文化」ですよね。若者は、リアルの社会に参入されるためのあるルール(セット)を了解するイニシエーション(通過儀礼)とは別に、オタク社会に参入されるため、こうした暗黙裡のルール(セット)を了解するという、また別のイニシエーションを受けるわけですよね。

 立派な文化じゃないのー?

(さらに自分でも今気がついて仰天したが、ラノベがなぜ「ライト」なのか判明した。つまりそうした読者に共有されている暗黙裡のルール(セット)について作者は作中でことさら説明する必要がない。その復号作業は読者側にビルドインされたルール(セット)に委ねられている。よって、記述はそれを前提にして必然的に簡素にならざるをえない。だってどーみてもツンデレなのに、彼女はツンデレであるとか書くと冗長、くどいから。そしてそういう復号コードを有していない読者には「なんのことやら?」と通じない。これこそ文化以外の何ものでもない、と冗長なことをまた書く。
 さらにこのブログ記事ですら、読者にはアニメに造形が深い方が多いかもしれないという前提で書いているので、洋ゲーしか知らんという人には「なんのこっちゃ?」でしょうね。つか、ここまで読むそういう読者がいるとは思えないけど)

 そして文化とは模倣。コピーの積み重ねですよね。

 押井さんや宮崎、彼らの属する文化集団は先達からなにも模倣していないのですか? その先達はさらに先行者から何かを模倣したと考えるのが自然じゃないですか?
 であれば、若者文化批判は、程度の違いの問題ではないですか? 

 受け売りの構造主義を持ち出すと(ここまで辿りついた屈強な読者ですら)脱落するのは間違いないのでほどほどにするけど、「作者は死んだ」説ってありますよね。様々な作品をバルトはテクスト、織り上げられたもの、と呼び、それは多様なローカルな言葉遣い(エクリチュール)からなるとしている。その多様なローカルな言葉遣いが対話し、模倣しあい、反目しあうが、あるところで収斂する。それは(今まで信じられたように)作者ではなく(意外にも)読者である、ってやつ。

 作者が何か作品を出した。     

 「俺様がこう意図して書いた(描いた)作品だ。そう理解せよ」

 暴力ですね。きっと怒っている人たちは、ここにファシズム、それが言いすぎなら理不尽な家父長制の匂いを感じるのでしょう。とりわけ思春期の子達は、そういう物言いにもっとも敏感に反応するはずだ。おっさんになると「うわ、このじじいばかだなあ」ってへらへら笑っていることができる。

 「俺様が書いた(描いた)らなんだかわからんが、こんなものできちゃいました。これどうよ?」

 この物言い、なじみありませんか?「電車男」、「ブラック会社」、「ケータイ小説」などなど。
 多くの人に好まれれば(共感されれば)、驚かれれば(珍しがられれば)普及し、今の時代なら容易にコピペ(ダビングとはもういわんのか、ダウンロード)され、(ネット上も含め)人口に膾炙し、さらにコピペ・ダウンロードされ普及する。

 「作者の死」は内田樹氏によれば「コピーライトの死」を予言していたとされる。それが法的にどうのこうのは言いませんが、皆がネットという加速装置を手に入れてしまった社会でこの流れのスピードはもう誰にも止められない。(USではまたしてもネット監視法案を出すようだが、ネットの激流にもまれて藻屑となると予想されている)

 だから、押井さんや宮崎に(無言も含めて)何かを言うなら、次のどっちかじゃないかな。

1.自分の属する集団が文化を形成するにあたって当然のように受け継いだ先行の集団の文化については何も触れず、自分の属していない(若い)集団の立派な文化を否定する、あなたは一体何様、馬鹿野郎様?
 自分が属していない(若い)集団の文化を詳しく知らないでいられるのは、クリエーターとして知的怠慢ではないの? 

2.ま、どうせ先に死ぬじじいだし、とせせら笑って何も言わない(という若者の「最大の特権」を行使する)。

(懺悔の部屋)

 さて、上の話で「暴力ですよね」と言っている私は、「世界の中心で叫ぶ馬鹿野郎様」という記事で、ジョージ・ルーカスがBD版のStar Warsを出すにあたり、ダース・ベーダーが瀕死のルークを見て「ノーッ!」と叫ぶセリフを付け足したことに激怒しているファンを馬鹿野郎様と呼んでおりました。
 ま、私も馬鹿野郎様であった。懺悔しとこう。
 実はしばらく前に筒井先生がご自分の読書歴に関して書かれた本を読んだ。井伏鱒二の「山椒魚」。あの驚愕のエンディング(って筒井先生と私は共有しているほう)を、全集に載せる際に作者本人が変えちゃったことに、脱力し、立腹していた。
 ここまでの作品になってしまうと、読者の共有財産なんだから、もう作者の自由なんてないんじゃないのか。そんなことを書かれていた。
 まあ、そんときですら自己弁護するため悪あがきして色々考えていたのですが、分が悪すぎる。とりあえず白旗揚げよう。どーもすいませんでしたっ!(ちっ)。

 

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コメント

あと、(指摘待ち受けていたけど来なかったので)Fate/Stay Nightのセイバーも「ガーディアン属性」そのものじゃん!という、自分つっこみ。ずるいなー、ああいうのはずるいよ。そのままだもの。
 

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