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2011年10月28日 (金)

The Witcher 2 ようやくクリア。 (5完)

 いつまでやってんだ、という声が聞こえてきそうですが、実はこれ考えると面白い。最後にまとめではなく、つらつら考えたことを羅列。

 何度も断ります。The Witcher 2はヴィデオ・ゲーム、今のCRPGとしては数少ない高品質の作品です。ぐだぐだ余計なことを考えなければ(ボス戦がうそ臭いのはあるけど)何も気にせず時間を潰せる(ちっと拍子抜けなくらい短いけど)。

 そしてストーリーにケチをつけられるのも、ケチをつけるに値するくらいのきめ細かな世界を描こうとしているからだと思います。残念ながら同じファンタジーCRPGのTwo Worlds 2(これもゲームとしては良品ですが)の世界観はここまでいじることができるほど豊穣ではない。前作に続いてまたしても、「あれ、そういえば拉致られた妹どうなったんだっけ?」という感じにもなってるしね。

 今や贅沢にも日本語版があるんだから、The Witcher 2もTwo Worlds 2 もぜひ遊んでみることをお奨めしておきます。コンソール版ではThe Witcher 2のボス戦もそんなにチート臭くないかもしれないし(ごめん、X360はまだリリースされてないな)。Dragon Age 2はまだ日本語版がない・・・。

 ストーリー・ドリヴンという、どう考えていいかわからない用語がありますが、最近ではゲームにストーリーが大事なのは別にCRPGに限らないと言われている。だから多くのゲームが「うちだってストーリー・ドリヴンだ」と宣言する。

 以前NHKで海外のゲームテスターの会社のドキュメンタリーをやっていたが、今やカジュアルゲームにさえ、なんらかのストーリーが必要だというのが共通認識だそうだ。
 違うのはスーマリくらいかな? これは以前「遠近法」の話で紹介したアート集団の人が述べていたように、「顧客に新しい行為をさせるのはリテラシーを要求することになる。新しい行為で新しい価値を,ではなく,今までの行為の中に新しい価値を付加するほうが望ましい」という発想につながるそうだ。「行為」自体を楽しむ遊び方。

 ストーリー重視というのは、実はとても難しい。DarksporeなるPCアクションゲームは、ストーリーが弱いという自覚があったのか、同じEA傘下であるBioWareからライターを借り受けた。デモ版をしばらく遊んだが、確かにストーリー自体はわかるようになっている。背景は今風にフロントエンド・オープニングで全部見せてくれる。でも、だから?という感じだ。Diabloチックなゲーム自体と余り関係がないのだ。
 たとえが悪いが「やおい」を避けるために、よくある物語を最初にぶちこんだAV映画のストーリーみたいになっちゃう。それは実はあんまり関係ないんだよね。

 ストーリー重視であるはずの本家本元のCRPG(の手法)が批判を受ける場合は、「話長すぎ」、「文字多すぎ」、「カットシーンありすぎ」、「物語を語るためにプレイヤーの自由を奪いすぎ」というあたりでしょうか。Dungeon Siege IIIがそういう昔ながらのやり方で物語を見せ、やっぱりプレイヤーがげっそりしているのが一例。

 Half-life 2(本当は前作Half-life)を嚆矢として、開始から終了まで一瞬たりとも一人称視点を崩すことを許さず、その中で物語を提示するつくり。これはその後の多くのFPS、それからPortal 2にも引き継がれていますが、「主流」が推すのはそっちです。ここで主流派が重要視しているのは「なんびとも(笑)プレイヤーの自由を奪ってはならない」という一点だけでしょう。これが主流ですね。プレイヤーは神様なんです(そのくせ神の視点、全知三人称の視点を決して与えられないというのがアイロニー・・・)。

 Fallout 3 は絶賛するが、Fallout: New Vegasにはわりと否定的な人が多いようです。もちろん、最初にあの世界を実現したのは(Morrowind、Oblivionであの手法を極めた)Bethesdaであり、ObsidianはオリジナルFalloutの開発者一派であるとはいえ、その世界の上で巨大なエキスパンション・パックを作っただけ、という割引きがあるんでしょう。
 その他には、Obsidianがまたしても初期バグの山を築いたというのを除けば、真の意味での(なんてものがあるとして)オープン・ワールド、砂場ゲームではないという批判もありますね。

 さて、ここからが本題。私の場合はどちらもよく遊びましたが、どちらかというと後者(New Vegas)に深くコミットした。もちろん自分自身のオールド・スクール派へのノスタルジーも否定できませんが、Fallout 3の前身、MorrowindやOblivionも遊び倒したことがある。

 ちなみにFallout 3 もNew Vegasも、一人称視点を頑なに守る点は一緒。HL2とは異なり、カメラを引けば背中からのぞく限定三人称になる便宜は図られているが、神の視点は許さない。ただし例外的にオープニング・ムーヴィーとエンディングのアフターマスで逸脱している(HL2にはそうしたナレーションすらない。すべてゲーム内で語る工夫をしてある)。

 Fallout 3の衝撃的なオープニングは今でもよく覚えています。あの強烈な日光に生まれて初めて曝された主人公の眩暈の表現が収まったとき、「さて、なに(どう)すっぺ?」という思いも強く抱いた。そこがあのゲームの最大の美点ですね。
 逃亡した父親を追跡するのはもちろんゲームクリアのため必須要件ですが、プレイすればお分かりのとおり、そのプロットはどんどん延期できてしまう。むしろ父親を発見してしまうと物語の幅はずっと狭まり、ゴールに邁進するような造りになっている。

 なにしていいかわからず途方に暮れる感覚というのは、なかなか味わえない。プレイヤーは、主人公同様におそるおそる新しい世界に踏み出す。一切迷わないで済む工夫はされてはいますが、じゃあ、例えばあの目の前にある建物はなんだ? 小学校。「学校」という制度はヴォールトにもあったからわかるが、建物は知識として知っているだけで現に目にするのははじめてだ。それがプロットとなんの関係もないことはずっと先になってようやくわかるが、探索したくてしょうがなくなる。
 しばらく彷徨えば(彷徨わなくてもいいが)、ようやく会話ができる住人のいるコミュニティにたどり着く。だがそこで主人公は完璧なよそ者。そりゃそうだ。ヴォールト・ドウェラー、生まれてこの方、地下シェルターから一歩も出ずに育ったのだから。言葉こそ通じる(設定だ)が、その社会の概念は(本当は)はじめて見聞きするものだ。

 ここでは大きな世界のほうが主役になる。世界の探索が自然とテーマになる。

 舞台がワシントンD.C.であるというのは大きな味噌です。Bethesdaが東海岸の会社だからオリジナルの西海岸から敢えて話を移したというのはある。それだけじゃなく、アメリカ人なら(そしてそれ以外の多くの人も)見聞きしているはずのモニュメントが多数登場する。
 オールド・ワールドの「馴染み」の風景がニュー・ワールドではどう変貌しているのか。「あるある」、「あ、きっとそうなるはず」という発見の愉しみがある。例えば座礁した空母なんてその一例でしょう。人々はその中でコミュニティを築いている。あるよなー。生活に便利そうだもんな。
 一方でDLCのThe Pittは不評だった。ピッツバーグはD.C.ほどは説明不要な街ではなかったからというのもその一因でしょう。そもそもピッツバーグである必要も余り感じられなかったし。

 New Vegasの造りは似ているようで違う。まず主人公には、自分を殺害しようとした相手を追跡する強い動機づけがある。Fallout 3 と同じように「追跡」が物語をドライヴする。
 だが主人公はクーリエ。配達人。本来この世界では良く知られていた存在だ。主人公は記憶こそ喪っているが、訪れる世界にはかつての顔見知りだと名乗る者もいる。この荒廃した、分断された世界で貴重なロジスティックスを担当するクーリエという立場だからコミュニティの住人も好意的な場合がほとんどだ(これをやりすぎてものすごく貴重な扱いにしてしまうとケヴィン・コスナーの映画「ポストマン」のような良くわからない話になってしまうけど)。
 少なくともこの世界の「よそ者」ではない。社会の中に居場所がある存在。 

 ここでは自分自身が主役になる。喪った記憶、巻き込まれた謎、自分探しをはじめることになる。

 New Vegasのザ・ストリップが、今のLas Vegasの延長上だと考える人などいない。Fallout 3のD.C.がまだ原型を留めているのとは異なり、これでもかっていうくらいデフォルメされまくっている。住人に至ってはカルカチュアライズされた悪党のオンパレードだ。だが、だからといって「世界がうそ臭い」という話にはならない。たとえそうであっても、そこで主人公がどう振舞うか、が主眼だから。
 もっといえばヴェガスである必要だってほんとはあまりない。フーヴァーダムの戦いは「そうだよな、そら必要だよな」とナットクできるが、歓楽街はアイコン、シャレでしょう。唯一ヴェガスでよかったと思えるのは、ザ・キングそのお方を無理なく登場させることができたから。でもザ・キングにしたって、自分が物まねしている(はずの)本物のことなんてもうほとんどわからないくらい歴史(情報)は風化しているのだ。あそこは上手ですねえ。(ただしザ・キングの本物を知る現代のライターが書いているから、本人の性格は混入している臭いけどね・・・) 

 自分もそうだと感じるのも、世界はそうだと感じるのも、どちらもコミットメント可能(描かれた世界にナットクする場合はデタッチメントというのだそうだが)。でも両者の味わいがだいぶ違うのはそういう理由であると思う。

(追加:例はなんでもいいのだが、作り手の姿勢が違うのは例えばFallout 3の奴隷たち。爆薬つきの首輪をつけられて使役されている者たちがいる。主人公(プレイヤー)は義憤(あるいは功利的な理由)から奴隷商を皆殺しするのも、それを利用する悪辣な立場を取るのも、敢えて知らん振りするのも自由だ。ところがNew Vegas のDLCではクーリエ本人がそういう奴隷の立場におかれてしまう。答えはその状況からの脱出ただ一つしかない(解法は複数存在する)。Fallout 3のDLCはどちらかというと見知らぬ土地の観光ツアーの趣が主体であるのに対し、New VegasのDLCは自分探しの物語にフォーカスされている、などもそうだ)

 だからFallout 3の主人公は、ずっと世界の傍観者的スタンスをとることもできる。なにも選ばない自由があってもおかしくない。New Vegasのクーリエはそうはいかない。なにしろ重要登場人物との間には因縁がある。そこは自分で始末をつける必要がある。

 残念ながらNew Vegasの二大勢力NCRとカイザーの間の選択には、「お好きなように」という以外になんの動機づけもないのだが、それは自分自身を見つめる話と、世界の物語との間がしっくり行っていないから。でも別段強制されるわけではなく「どっちもキライ」でも「興味ないっす」でも選べる造りなので救われている。

 Two Worlds 2は、しばしば「そういえば妹どうなったっけ?」と思ってしまうので、Fallout 3のように世界を探索するほうに比重がある。The Witcher 2は、ゲラルトの自分探し、私的な物語に力点を置いたらもっとコミットできたのになあ、という感想はもう書いた。
 でも仕方がないのもわかる。いまどきCRPGは「エピック!」と名乗れないと売れないのだ。世の中の流れはそっちのほうなんだよな。

 フィリップ・マーロウでもいいが、ゲラルトはむしろジョン・カーペンターの映画"Escape from New York"の主人公スネーク・プリスキンのように「世界がどうなろうが、おら、しらね」という態度を貫いて、最後は(しゃれで!)社会に痛烈な一撃を喰らわせる、でもいいんですけどね。ちょっとアナーキーすぎるか。

 さて、そろそろ私も新しい世界、Skyrimの世界を発見しに旅立つことになります。
 もちろん、トッド・ハワードのMorrowind、Oblivion、そしてFallout 3の系列に連なる作品になるのは間違いないでしょう。そういう伝統も大事だ。
 なにが嬉しいって、プレイ記事なぞ書かずに自由にまったり遊べることですけどね。

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